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知己の父の乳がガン  作者: 団田図


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第15話 職人の未来

 再び総合病院の乳腺外科に戻ってきた隼人と雅。

 待合室の入り口で、葉那香《はなか》は「私はここで待ってるから」と親指を立てて笑い、二人を送り出した。

 中待合を抜け、恐る恐る診察室のドアをノックする。

「どうぞ」

 落ち着いた女性の声に促され、隼人は雅とともに部屋へ足を踏み入れた。

 デスクの奥から立ち上がった主治医の神保は、逃げ出した隼人を一切責めることはなかった。彼女はタイトなまとめ髪の奥にある知的な瞳を柔らかく細め、温かく迎え入れてくれた。


「戻ってきてくれてよかった。お帰りなさい、八木澤《やぎさわ》さん」

「……その、さっきは勝手にいなくなって、申し訳ありませんでした」

 隼人がバツが悪そうに帽子を脱いで頭を下げると、神保医師は穏やかに首を振った。

「謝る必要はありませんよ。男性の患者さんは、皆さん最初は戸惑うものです。あの待合室は、少し居心地が悪かったでしょう。こちらの配慮も欠けておりました」

 その言葉には、患者が抱える羞恥心や戸惑いへの深い理解が込められていた。過剰に腫れ物に触るような扱いではなく、毅然としながらも患者の尊厳に寄り添う態度。妻の莉子から突きつけられた事務的な正論とは違う、血の通った医療者の言葉に、隼人の張り詰めていた緊張が少しだけ解けていくのを感じた。


「隣の方は、娘さんですね。一緒にお話を聞いていただけますか」

「はい。よろしくお願いします」

 雅が隣の丸椅子に座り、カバンからノートとペンを取り出したのを見て、神保医師は静かに頷き、モニターに検査画像を表示した。


「それでは、今後の治療方針について具体的にお話しします。八木澤さんの場合、悪性腫瘍を取り除くために『左乳房全切除術』を行う必要があります」

「全切除……」

「はい。乳頭と乳輪を含め、左胸の乳腺をすべて切除します」

 淡々と、しかし確実に告げられた具体的な手術内容に、隼人は息を呑んだ。

 左胸を、すべて切り取る。その恐ろしい言葉の響きに、隼人の脳裏に一つの致命的な懸念がよぎった。


「先生。胸を切るってことは……その下にある筋肉も、バッサリ切り取っちまうってことですか?」

「筋肉、ですか」

「俺は、畳職人をやってます。分厚い畳床《たたみどこ》を縫い上げるのにも、何十キロもある畳を担いで納品するのにも、胸の筋肉が絶対に必要なんです」

 隼人は身を乗り出し、切実な声で訴えた。

「もし胸の筋肉まで切ったら、重い畳を持ち上げられなくなる。それは、俺にとって職人として終わりを意味するんです」

 これまで男としての羞恥心ばかりを気にして強がっていた隼人が、男としての尊厳だけでなく、自らのアイデンティティである職人生命を絶たれる恐怖を初めて声に出して打ち明けた瞬間だった。


 隣で聞いていた雅は、ノートにペンを走らせる手を止め、ハッと父親の横顔を見た。

(父さん……ずっと、仕事ができなくなることを怖がってたんだ……)

 ただ意地を張って逃げていたわけではない。家族を養い、自分のすべてを注ぎ込んできた「職人としての誇り」を失う恐怖と、たった一人で戦っていたのだ。


 隼人の悲痛な訴えを受け止めた神保医師は、深く頷いた。

「八木澤さん。昔の乳がん手術では、胸の筋肉ごと大きく切除するのが一般的でした。ですが、今は違います」

「違う……?」

「はい。八木澤さんの職人としての生活を守るため、大胸筋を温存する術式でいきます」

 神保医師は患者の人生に寄り添うように、真摯な口調で明確に答えた。

「がん細胞が筋肉の奥深くまで浸潤していなければ、大胸筋や小胸筋といった胸の筋肉は残すことができます。八木澤さんの画像を見る限り、筋肉を温存したまま乳腺だけを綺麗に切除することは十分に可能です」

「筋肉は……残るんですね。畳も、担げますか」

「術後のリハビリ次第ですが、以前のように仕事に復帰された患者さんも大勢いらっしゃいます。一緒に頑張りましょう」


 その言葉を聞いた瞬間、隼人の目からスッと険しい光が消え、深く安堵の息が漏れた。

「……ありがとうございます。先生」

 隼人が深々と頭を下げたその隣で、雅はふたたび勢いよくノートに向かい、ペンを走らせ始めた。

『左乳房全切除術』『大胸筋は温存』『仕事復帰可能』。

 父親のために、聞き慣れない医療用語や今後のスケジュールを、一言一句逃すまいと必死にメモを取る。その横顔は真剣そのもので、さっきまで公園で泣きじゃくっていた子供のような姿はもうなかった。

 神保医師は、必死にメモを取る娘と、それを少し照れくさそうに見つめる父親を交互に見やり、温かく微笑んだ。


 +++


 長い診察を終え、病院の外へ出ると、汐見野の街はすでに夕日に染まっていた。

 待合室で待っていた葉那香は「今日は家族でゆっくりしてね」と気を遣い、駅前で別れて帰っていった。

 海風が吹き抜ける坂道を、隼人と雅は二人並んで歩いていた。

 行きにあれほど重かった足取りは、不思議と軽くなっていた。手術に対する恐怖や不安が完全に消え去ったわけではない。しかし、一人で暗闇を抱え込んでいた時とは違い、今の隼人の隣には、力強く前を歩いてくれる娘がいる。


「父さん、お母さんには私から説明しとくから。ちゃんとスケジュールもメモしたし、入院の手続きも私がやるからね」

 雅はカバンからノートを取り出し、得意げに胸を張った。

 隼人は歩きながら、そのノートのページをチラリと覗き込んだ。

「……お前、相変わらず字が汚くて読めねえぞ」

「はあ!?読めるし!父さんのために一生懸命書いたのに、文句言うわけ!?」

 雅がムキになってノートを隠すと、隼人は「悪かったよ」と鼻で笑い、無骨な手で頭を掻いた。

「……ありがとな、雅」

 照れ隠しのように小さく呟かれた感謝の言葉。

 雅は一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから「……どういたしまして」と、少しだけ頬を染めてそっぽを向いた。


 初夏の茜色に染まる海を見下ろしながら、二人はゆっくりと坂道を下っていく。

 父親を避けていた反抗期の娘と、不器用で意地っ張りな職人の父親。

 残酷な病の宣告は、冷え切っていた家族の間に決定的な亀裂を生んだかのように見えた。しかし、それを乗り越えて本音をぶつけ合った今日、親子の距離は間違いなく、以前よりも温かいものへと変わっていた。


(待っててよ、父さん。絶対にまた畳を打たせてプライドを取り戻させるんだから)

 雅は強くノートを握りしめ、潮風の中で前を向いた。

 迫り来る『手術』という大きな試練に向けて、八木澤家の闘いが、ようやく本当の意味で幕を開けようとしていた。

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