第16話 妻の正論
海風が心地よい初夏の空気を運び始める時期になっても、八木澤家のダイニングには重く冷たい空気が居座っていた。
数日後に迫った隼人の入院と手術。
雅はテーブルの上に病院から渡されたパンフレットと『入院準備リスト』を広げ、真剣な顔でボールペンを握っていた。
「えっと、前開きのパジャマと専用の胸帯、それからかかと付きのスリッパ……。ねえ父さん、これ明日一緒に買いに行こうよ」
「ああ、悪いな。俺じゃ何を買っていいかよく分からねえから、助かる」
向かいに座る隼人が、少し申し訳なさそうに頭を掻く。
以前のように「手が痛い」「匂いが臭い」と父を避けていた雅の姿はもうない。病院を逃げ出した父親の本音と恐怖に触れて以来、雅は親友の葉那香から教わったように、不器用ながらも全力で父のサポートに回っていた。
しかし、その温かくなり始めた親子の空間を、分断するように響く音があった。
カチカチというマウスのクリック音と、紙の上を滑るペンの音だ。
隼人が大きな病気と闘おうとしている時でも、母の莉子は淡々と自分の仕事を続けていた。
夕食を終えた後の、これからのスケジュールを話し合う家族会議の最中であっても、莉子はパソコンの画面と手元の図面ばかりを見ており、机の上には建築用の縮尺定規や付箋の貼られたメモを無造作に置きっぱなしにしている。
「……ねえ、お母さん。聞いてる?」
雅が苛立ちを込めて声をかけると、莉子は図面から目を離すことなく、淡々とした声で答えた。
「聞いてるわよ。入院の準備でしょ。足りないものがあれば、私の財布からお金を出して買ったらいいわ。領収書はちゃんと取っておくこと。高額療養費制度の申請手続きは私がもう済ませておいたから、窓口での支払いは限度額までで済むはずよ」
「お金の話なんかしてない!明後日、父さんが入院するんだよ?少しは心配じゃないの?」
「心配だから、手続きを済ませているんでしょ」
莉子は小さくため息をつき、ようやく眼鏡の奥の目を雅に向けた。
「いい、雅。病気を治すのはお医者様よ。私たちが隣で手を握っていても、病気は治らない。私が今すべきことは、滞りなく治療費を払い、この家の生活を維持すること。そのためには、目の前のコンペを絶対に落とせないの」
正論だった。一切の隙がない、完璧な合理主義。
昔、感情に振り回されて崩壊した実家の工務店を見て育った莉子にとって、理詰めで現実を支えることだけが、彼女なりの歪んだ愛の形だった。
しかし、いよいよ胸にメスを入れられようとしている隼人が今求めているのは、そんな冷たい正論ではない。
(この人は、父さんがどれだけ怖い思いをしてるか、ちっとも分かってない……!)
雅はギュッと拳を握りしめ、「父さんがこんな時にまだ仕事?」と、莉子に対して強い軽蔑の眼差しを向けた。
「お母さんには、心ってものがないわけ!?父さんが大変な時に、図面なんか引いててそれでいいと思ってるの!?」
「雅、よせ」
隼人が低くしゃがれた声で制止した。
「……俺はいい。こいつの言う通りだ。金は稼いでもらわなきゃ困る。お前のためでもあるんだ」
隼人は力なく目を伏せた。
妻にすがりたい、弱音を吐きたいという気持ちはとうに諦めていた。長年すれ違ってきた夫婦の溝は、がんという大病を前にしても埋まることはないのだと、隼人は深い孤独の中で悟ったふりをしていた。
「……話が終わったなら、私は事務所に戻るわ。明日の朝食は作り置きしておくから、温めて食べてちょうだい」
莉子は乱暴に図面と縮尺定規をかき集めると、立ち上がってダイニングを出て行った。
パタン、と扉が閉まる音が、冷え切った家の中に虚しく響き渡る。
「……最低。父さん、あんな冷たい女の言うこと、気にしなくていいからね。私がずっとついてるから」
雅の言葉に、隼人は曖昧に頷くことしかできなかった。
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自宅に併設された『ハートフル建築設計事務所』の仕事部屋。
ダイニングから戻ってきた莉子は、デスクの椅子に深く腰掛け、大きく息を吐き出した。
(……心がない、か)
娘から向けられた氷のような軽蔑の眼差しが、胸の奥をチクリと刺す。
感情を言葉で表現することが、昔から極端に苦手だった。夫の痛みに寄り添い、共に泣いて慰めるような器用な真似ができない自分を、誰よりも莉子自身が歯痒く思っていた。
「……泣いたって、治らないじゃない」
莉子はポツリと呟き、先ほどダイニングから持ち帰ってきた図面をデスクの上に広げた。
それは、現在進めているクライアントの商業施設の図面ではなかった。
用紙の端に、莉子の几帳面な字で『八木澤家・一階改修案』と書かれている。
莉子は震える手でペンを握り、図面の上に細かな書き込みを加えていった。
『大胸筋温存術後・腕の可動域制限を考慮』
『廊下の手すり位置:床から750ミリ』
『寝室からトイレまでの動線:段差解消・引き戸へ変更』
そして図面の一番奥、日当たりの良い南側の部屋には、緻密な計算の跡とともに『隼人専用・特注和室(作業場兼用)』と記されていた。
重い畳を持ち上げられなくなったとしても、隼人が座ったままい草の匂いに包まれ、小物作りや軽い作業ができるように設計された、身体に負担のない特別な空間。
(あの人から、畳を取り上げたら生きていけない)
合理的で冷酷に見える母は、感情を言葉にするのが苦手な代わりに、建築家としての全スキルと情熱を傾けて、「隼人が生きて戻ってくる居場所」を必死に形にしようとしていたのだ。
「……絶対に、帰ってきなさい。あなたの場所は、私が作っておくから」
誰にも見せることのないその図面に、ポタリと小さな水滴が落ちた。
莉子は慌てて眼鏡を外し、目元を乱暴に拭うと、再び縮尺定規を当てて線を強く引き始めた。
言葉の代わりに図面を引く。それが、不器用な妻が夫に捧げる、誰にも知られることのない無骨で深い愛情の形だった。




