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知己の父の乳がガン  作者: 団田図


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第17話 娘のサポート

 その日の夜。

 八木澤《やぎさわ》家の時計が二十一時を回っても、隼人の目は冴えきっていた。

 明日はいよいよ、総合病院に入院し、左胸にメスを入れる日だ。

 布団の中で目を閉じると、冷たい手術台の感触や、無機質な機械の音が幻聴となって襲ってくる。いくら大胸筋を温存すると言われても、自分の身体の一部を切り取られるという生々しい恐怖が、暗闇の中で容赦なく隼人の心を蝕んでいた。


(……ダメだ。ちっとも眠れねえ)

 手術という大きな試練を前にした生々しい恐怖から、不安で眠れなくなった隼人は、たまらず布団を抜け出した。

 気がつけば、夜風に吹かれながら湊元町《みなともとまち》の路地裏を歩き、ふらりと小料理屋「まき」に顔を出していた。


「いらっしゃい……あら、隼人さん」

 暖簾を下ろそうとしていた女将の弥生《やよい》が、驚いたように目を丸くした。

「……悪い。まだ、少し座らせてもらえるか」

 隼人が力なく笑うと、弥生は深く事情を察したように優しく微笑み、「ええ、どうぞ」とカウンターの奥へと招き入れた。


 店内には、閉店間際の静かな時間が流れていた。

 明日は手術を控えているため、当然ながら酒は飲めない。手持ち無沙汰に湯呑みの白湯をすすっている隼人の前に、弥生がそっと湯気を立てる丼を置いた。

「おあがりください。胃に優しい、特製のうどんだよ」

「うどん……?」

「夜は冷えるからね。大仕事の前に、少しお腹を温めておいてはどうかと」

 弥生が気を利かせて出してくれたのは、温かい出汁の効いたうどんだった。

 透き通った琥珀色のつゆを一口すすると、昆布と鰹の深い旨味が、冷え切って強張っていた五臓六腑にじんわりと染み渡っていく。その温かさに、隼人は思わず小さく息を吐いた。


「……おう、隼人じゃねえか」

 ふいに、カウンターの奥から野太い声がした。

 見ると、壁際で一人、静かに熱燗を飲んでいる男の姿があった。大工の原口辰男だった。

 辰男は以前、この店で隼人の病気を「男が女の病気なんて」と笑い話にし、雅から激しく怒鳴りつけられた一件がある。心無い失言をして深く反省していた彼は、気まずそうに頭を掻きながら、隼人の隣の席へと移動してきた。


「これから、いよいよ本格的な治療なんだろ?」

「ああ……まあな。情けねえ話だが、柄にもなくビビっちまって、こんな夜中に逃げ出してきちまった」

 自嘲気味に笑う隼人に対し、辰男は真剣な顔で手元の猪口を見つめた。

「隼人。……昔、俺が建てて、お前が畳を入れた坂ノ上《さかのうえ》の家、覚えてるか」

「……ああ。十年くらい前の新築か」

「この間、修繕で様子見に行ったらよ。お前が打った畳、まだ少しも狂いがなくて、すげえ綺麗に使われてたぞ。家主も『八木澤さんの畳は足の裏が落ち着く』って大絶賛だった」

 辰男の言葉に、隼人は箸を止めた。

「お前の腕はな、まだまだあちこちで必要とされてるんだ。病気なんかに負けて、くたばってる場合じゃねえぞ」

 辰男はそう言うと、バンッと隼人の広い背中を叩いた。

「無事に帰ってきたら、快気祝いに一番高い酒を奢ってやるからな。絶対に戻ってこい!約束しろ!」

 それは、口は悪いが情に厚い、男同士の不器用な励ましだった。

「……バカ野郎。一番高い酒なんて言ったら、後悔するぞ」

 隼人の目頭が、少しだけ熱くなった。


「おじさーん!」

 店外へゴミ出しに行っていた葉那香《はなか》が戻ってくると、隼人の姿を見つけてパッと顔を輝かせた。

「葉那香。……夜遅くに邪魔したな」

 うどんの丼を空にして席を立つ隼人に、葉那香は元気いっぱいの笑顔を向けた。

「おじさん、みんなで待ってるんだからね!絶対に元気になって帰ってきてね!」

「……ああ。行ってくる」

 店を出る隼人の背中を、出汁のいい香りと、周囲の人々の温かな声援が包み込んでいた。

 手術という大きな試練を前にして、闇夜に震えていた隼人の生々しい恐怖は、周囲の温かさに支えられ、確かに和らいでいた。


 +++


 日付が変わった深夜。

 汐見野の冷たい海風が吹き抜ける中、隼人が自宅の玄関を開けると、真っ暗なはずのダイニングにぽつりと明かりが灯っていた。


「……遅いよ、父さん」

 テーブルに頬杖をつき、うとうとしていた雅が、パチリと目を覚まして不満げに口を尖らせた。

「雅……?お前、こんな時間まで起きてたのか」

「当たり前でしょ。明日早いのに、勝手にふらふら出歩いて。……まさか、また逃げようとしたんじゃないでしょうね?」

「バ、バカ言え。ちょっと風に当たってきただけだ」

 図星を突かれてしどろもどろになる隼人を、雅はジト目で睨んだが、すぐに小さくため息をついて立ち上がった。

 ダイニングの隅には、大きなボストンバッグが二つ、綺麗に並べられている。


「父さん、明日の入院の荷物チェックしといた。パジャマもタオルも、全部私が入れておいたからね」

「……お前が、やってくれたのか」

「そうだよ。だから明日は、安心して旅行気分で行こうよ」

 雅は父親の前に歩み寄り、その節くれだった大きな手を、両手でギュッと握りしめた。

「明日は、私も一緒に病院行くからね。手術室の前で、ずっと待ってるから」

 その声には、かつて父親を「臭い」と避けていた冷たい娘の面影は一切なかった。ただ純粋に、大切な家族の無事を祈り、共に闘おうとする力強いサポートの決意が宿っていた。


「……おう。頼む」

 隼人は、娘の手の温もりを噛み締めるように、力強く握り返した。


 恐怖はまだ、完全には消えていない。

 それでも、自分の帰りを待ってくれる仲間がいて、自分のために家を守ろうとしてくれる妻がいて、何より、こんなにも真っ直ぐに自分を支えてくれる娘がいる。

(俺はまだ……死ぬわけにはいかねえな)

 不器用な親子の絆を確かなものにして、八木澤隼人は、静かに決戦の朝を迎えようとしていた。

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