第18話 手術室前
六月中旬。海風が吹き上げる汐見野市は、梅雨特有の重く湿った空気に包まれていた。
県立しおみの海風高等学校の教室からは、白く煙る外海と、どんよりとした灰色の空が見える。
昼休みの喧騒の中、雅は自分の席で、黙々とスクールバッグに荷物を詰め込んでいた。午後からの授業を受けず、早退するための準備だ。
「雅、帰るの?」
クラスメイトの女子が声をかけてくると、雅は手を止めずに短く答えた。
「うん、ちょっと家の用事でね」
努めて平静を装うその声は、いつも通りのクールな響きを保っていた。
しかし、少し離れた席から彼女を見つめていた葉那香は、雅の微かな異変に気づいていた。雅の周りから、いつも以上に強いシトラスの香水の匂いが漂っているのだ。匂いに敏感な雅が香水を強めにつける時は、何か大きな不安や嫌なことを誤魔化そうとしている時である。
さらに、雅の指先は小刻みに震えており、カバンの金具を留めるのに何度も手間取っていた。
(雅……パニック寸前じゃない……)
葉那香は痛いほどに親友の心を察していた。今日が、雅の父・隼人の「左乳房全切除術」の手術当日であることを知っていたからだ。
カバンを肩にかけ、教室を出て行こうとする雅の背中に向かって、葉那香はたまらず声をかけた。
「雅」
雅の足が、ピタリと止まる。
「大丈夫だからね」
その言葉に、雅は振り返ることはなかった。ただ、小さく頷き、早足で教室から去っていった。その頼りない後ろ姿を見送りながら、葉那香は居ても立っても居られない衝動に駆られていた。
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総合病院の手術室前。
冷たいリノリウムの床が続く無機質な廊下に、重たい静寂が降り積もっていた。
ストレッチャーに乗せられた隼人が、看護師たちに囲まれて手術室の重厚な扉の前に待機している。色褪せた作業着を脱ぎ、手術着を身にまとった隼人の顔には、いつもほどの威勢はなかった。しかし、直前で逃げ出した先日のような怯えはなく、腹を括った男の覚悟が滲んでいる。
「父さん……」
付き添いとして立っている雅の声は、微かに震えていた。
「なんだ、雅。そんなシケた面すんな」
隼人はストレッチャーの上から、わざとぶっきらぼうな声を出して笑ってみせた。
「使い古した体を新床にしてくらぁよ」
い草を新しいものに張り替える畳の仕事に例えた冗談。その言葉に、雅は涙を堪えながら強く首を振った。
「畳の張替えとは違うのよ!……しっかりね。待ってるから」
「ああ。行ってくる」
隼人の節くれだった大きな手が、軽く持ち上がった。
ウィーンという重い駆動音とともに手術室の扉が開き、ストレッチャーがゆっくりと吸い込まれていく。扉が完全に閉まり、赤い「手術中」のランプが点灯した瞬間、雅は世界にたった一人取り残されたような、強烈な孤独感に襲われた。
(本当に、大丈夫なの……?)
大胸筋を温存すると言われても、全身麻酔をかけ、胸にメスを入れるのだ。万が一のことがあったら、あの無骨な手で二度と畳を打つ音が聞けなくなってしまう。
雅は膝の力が抜けそうになり、壁に寄りかかって無言で立ち尽くした。
「雅!」
その時、廊下の向こうから息を切らした声が響いた。
振り返ると、制服姿の葉那香が走ってくるのが見えた。
「葉那香……どうして」
「学校終わって家に寄ってからダッシュで来ちゃった」
葉那香は肩で息をしながら、雅の隣に立った。
以前、雅が「他人のくせに家族面しないで」と拒絶した一件から、二人の間にはまだ完全には消え去っていない気まずさがあった。しかし、葉那香はそんな壁など意に介さず、親友のために駆けつけてくれたのだ。
「……無理しなくていいのに。でも、来てくれてありがとう」
「平気平気。私も一緒に待つから」
互いに少しだけ視線を逸らしながらも、二人は並んで待合室の長椅子に腰を下ろした。
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同じ頃、汐見野市内の貸し会議室。
雅の母・莉子は、大型商業施設のリニューアルコンペに向けた重要な打ち合わせの真っ只中にいた。
モニターに映し出されたCADの図面を前に、クライアントの担当者たちと激しい意見交換が行われている。普段の莉子であれば、どんな細かな設計ミスも見逃さず、冷徹なまでの合理性で議論をリードしているはずだった。
「八木澤さん。ここの動線ですが、もう少し広げた方が……」
「ええ、そうですね。……そこの柱の構造計算は、再度確認します」
莉子は淡々と応じながらも、無意識のうちに左腕の腕時計へと視線を落としていた。
(十五時半……。そろそろ、メスが入る頃ね……)
図面を見つめているはずの彼女の脳裏には、冷たい手術台の上で横たわっている夫の姿が絶え間なくチラついていた。
娘には「病気を治すのはお医者様よ」と正論をぶつけ、仕事を優先した。しかし、いざ手術の時間となると、驚くほど仕事に集中できていない自分がいた。
「八木澤さん?」
クライアントの担当者が、怪訝そうな顔で莉子を覗き込んだ。
「……はい」
「少しお疲れですか?先ほどから、上の空のようですが」
「……申し訳ありません。少し、考え事をしておりました。続けましょう」
莉子は慌てて眼鏡の位置を直し、手元の資料に目を落とした。
自分は冷たい女だ。夫のそばにいてやることもできず、こうして仕事にしがみついている。しかし、このコンペを勝ち取らなければ、夫の治療費も、彼が帰ってくるための家の改修費用も捻出できないのだ。
(……必ず、帰ってきなさい。あなたの場所は、私が作って待ってるんだから)
莉子は縮尺定規を握る手に、ギリッと力を込めた。
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総合病院の待合室。
手術が始まってから、すでに二時間が経過していた。
窓の外は相変わらずの鈍色で、時折、雨粒がガラスを叩く音が響く。
待合室の重苦しい静寂の中、雅は何度も壁の時計の針を見上げては、深くため息をついていた。血の気が引き、その顔色は真っ青だった。
落ち着かない様子で膝の上で両手を強く握りしめる雅を見て、葉那香はそっと自分のカバンの中を探った。
「雅」
「……何」
「はい、これ」
葉那香が取り出したのは、竹皮に包まれた小さな包みだった。
竹皮を開くと、中には海苔が巻かれた少し大きめの塩むすびが入っていた。
「お母さんがね、急いで持たせてくれたの。弥生特製の塩むすびよ。お昼に何も食べてないんでしょ?」
「……私はいいわ。今は、とても喉を通る状態じゃないの」
雅が顔を背けると、葉那香は無理やりその手に塩むすびを握らせた。
「お腹空いてると、不安が何倍にも膨らんじゃうから。一口だけでいいから食べて」
葉那香の温かい声に促され、雅は渋々といった様子で塩むすびに口をつけた。
ふっくらと炊き上がった米と、ほんの少し強めに効いた塩気。小料理屋「まき」の出汁の風味をどこかに感じさせる、素朴で優しい味が、冷え切った雅の胃の中に広がった。
「それにね、お母さんが言ってたよ」
葉那香は、雅の横顔を見つめながら優しく微笑んだ。
「『大将はね、口下手で不器用だけど、一度向き合うって決めたものから逃げたり、途中で放り出すような人じゃないよ。雅ちゃんたちの元へ帰るためなら、泥臭くたって絶対に踏ん張って帰ってくる男だから信じな』って」
その伝言を聞いた瞬間、雅の目が大きく見開かれた。
父親が打つ重い畳、その無骨で節くれだった大きな手。そして、自分の手を強く握り返してくれた、あの時の温もり。
汐見野の人々が、父の強さを信じてくれている。その事実が、孤独に震えていた雅の心に深く染み渡った。
「……っ」
ポロリと、雅の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
塩むすびを握る手が小刻みに震え出し、やがて嗚咽へと変わっていく。
「お母さんは来ないし……もし、親父がこのまま目を覚まさなかったらどうしよう……っ」
張り詰めていた雅の感情の糸が、完全に切れた瞬間だった。
意地っ張りでプライドの高い雅が、こんな風に子供のように泣きじゃくる姿を見せるのは、親友である葉那香の前だからこそ出せる、ありのままの本音だった。
「大丈夫。おじさんは絶対に帰ってくる。私のお母さんも町のみんなも待ってるんだから」
葉那香は何も否定せず、ただ優しく雅の背中を撫でた。
冷たい病院の待合室で、雅は葉那香の肩に寄りかかりながら、長い手術の時間を耐え忍んでいた。その涙には、不器用な父親への深い愛情と、失うことへの痛切な恐怖が入り混じっていた。
手術中の赤いランプは、まだ冷たく光り続けていた。




