第19話 妻の本音
壁の時計の針が午後六時を回る頃、窓の外の汐見野の空はすっかりと暗くなり、街の灯りが冷たい雨に滲んで瞬き始めていた。
待合室の長椅子で、雅は祈るように両手を組み合わせ、前かがみの姿勢でじっと床を見つめ続けていた。隣に座る葉那香も、何も言わずにその肩に寄り添っている。
ふいに、廊下の奥で「カチリ」という小さな電子音が鳴った。
雅が弾かれたように顔を上げると、数時間に及んで点灯し続けていた『手術中』の赤いランプが、ひっそりと消えていた。
「……っ」
雅は息を呑み、ふらつく足で立ち上がった。葉那香も慌ててその後を追う。
重厚な扉がゆっくりと開き、術着姿の神保医師が姿を現した。長時間の執刀を終えたばかりで疲労を滲ませてはいたが、その表情は落ち着いており、眼鏡の奥の瞳には穏やかな光が宿っていた。
「神保先生……!父、父は……」
すがるように問い詰める雅に対し、神保医師はマスクを外し、静かに微笑んで頷いた。
「無事に終わりましたよ」
その一言に、雅の全身からスッと強張りが抜けていく。
「予定通り、左乳房の全切除とセンチネルリンパ節生検を行いました。そして約束通り、大胸筋は綺麗に残せていますよ」
神保医師は、雅が一番心配していた「職人としての命」が守られたことをはっきりと告げた。がん細胞の浸潤は筋肉にまで及んでおらず、分厚い畳床を縫い上げるために必要な胸の筋肉は、見事に温存されたのだ。
「あ……ああ……」
雅は安堵のあまり膝から崩れ落ちそうになり、慌てて葉那香がその身体を抱き止めた。
「ありがとうございます……父さん、また畳が打てるんですね……」
雅の目から、堪えきれなくなった涙が次々と溢れ出した。父親を「臭い」「手が痛い」と避けていた娘が、父親の生業である泥臭い仕事を誰よりも案じ、その手が守られたことに心底からの安堵の涙を流しているのだ。
神保医師は、泣き崩れる雅の肩を優しく叩き、「お父さん、よく頑張りましたよ。後で顔を見てあげてください」と温かい声をかけた。
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すっかり夜の帳が下りた総合病院の特別病室。
母の莉子が「大部屋だと周りに気を遣ってストレスになるから」と手配していた個室には、規則正しい心電図のモニター音だけが静かに響いていた。
ベッドの上には、麻酔から覚めたばかりの隼人が横たわっている。意識はまだ少し混濁しており、浅い呼吸を繰り返しながら眠りについていた。
その左胸の包帯の隙間からは、患部に溜まる血液や体液を外に出すための太いドレーン(排液チューブ)が伸びている。生々しい手術の爪痕だが、包帯の下には確かに大胸筋の膨らみが残されており、彼が職人としての未来を失わなかったことを無言で物語っていた。
「……おじさんの顔も見られたし、私はそろそろ帰るね」
ベッドの傍らで見守っていた葉那香が、雅に向かって小さく囁いた。
「うん……今日は本当にありがとう、葉那香。私一人だったら、押し潰されてたかもしれない」
「親友なんだから、当たり前でしょ。雅も今日はゆっくり休むんだよ」
葉那香は優しく微笑むと、眠る隼人に向かって「おじさん、また来るからね」と小さく手を振り、病室を後にした。
葉那香が帰り、病室に再び静寂が訪れてから数十分後。
廊下から、慌ただしく駆け足で近づいてくるヒールの音が響いた。
バンッ、と少し乱暴に扉が開き、息を切らした莉子が病室に駆け込んできた。
「……お母さん」
雅が振り返ると、そこにはいつもの完璧なキャリアウーマンの面影はない、余裕を失った母の姿があった。綺麗にセットされているはずのショートカットの髪は少し乱れ、額には汗が滲み、呼吸を整える間も惜しむようにベッドへと歩み寄ってくる。
「……父さん、無事だったよ」
雅は、ベッドの脇を開けながら静かに言った。
「左胸の乳腺は全部取ったけど……ちゃんと、大胸筋は残ってる。また、畳を作れるって」
莉子は無言のままベッドの横に立ち、眠り続ける隼人の無精髭の伸びた顔をじっと見下ろした。
そして、視線をゆっくりと下ろし、包帯が巻かれた左胸と、そこから伸びる太いドレーンを見つめる。胸の筋肉が失われず、夫が生きがいを奪われずに済んだという事実を、その目で確かめるように。
これまで「感情論で病気は治らない」「仕事を優先する」と、合理的な正論ばかりを突きつけていた莉子。しかし、病室に駆け込んできた彼女の瞳には、隠しきれない極度の焦燥と、無事に夫が生きていることへの深い安堵の光が滲み出ていた。
言葉で愛情を表現するのが絶望的に不器用なだけで、彼女もまた、仕事という戦場で夫の居場所を作るために一人で戦い、その合間を縫って誰よりも早く駆けつけてきたのだ。
「……よかった」
ポツリと、莉子の口から震える声が漏れた。
彼女はそっと手を伸ばし、布団から少しだけ出ている隼人の、分厚く硬いタコのある指先に自分の指を重ねた。
「……よく頑張ったわね、あなた」
誰にも見せないはずだった妻の本音が、静かな病室に溶けていく。
雅は、その母の横顔を無言で見つめていた。昼間、手術室の前で「お母さんは来ないし」と泣きじゃくっていた時の孤独感は、もうどこにもない。
バラバラになりかけていた不器用な家族の心が、大きな試練を乗り越え、確かな温もりを持って結び直されようとしていた。
窓の外では、いつしか冷たい雨が上がり、汐見野の海の上には微かな月明かりが差し込み始めていた。




