第20話 温かい祝福
七月上旬。汐見野市は梅雨明けを迎え、藍色の外海から吹き上げる風が、本格的な夏の匂いと湿気を街に運び始めていた。
左乳房の全切除手術と数週間の入院生活を終えた八木澤隼人が、退院の手続きを済ませて自宅へと帰ってきた。
「……ただいま」
玄関の引き戸を開け、久々に嗅ぐ自宅のい草の青臭い香りに、隼人は小さく息を吐いた。
手術の傷跡は塞がりつつあるが、大胸筋を温存したとはいえ、切除した左胸の皮膚は引きつり、時折チクリとした痛みが走る。それでも、無事にこの家に帰ってこられたという事実が、強張っていた彼の心をゆっくりと解かしていった。
「父さん、靴そのままにしていいから!荷物も私が持つってば」
後ろからついてきた娘の雅が、素早く隼人の手からボストンバッグを奪い取る。
以前は「ガサガサの手がみっともない」「匂いが臭い」と父親を避けていた反抗期だった雅だが、今は率先してかいがいしく世話を焼いていた。
「悪いな、雅。……お前も、母さんも、仕事や学校を休ませちまって悪かった」
隼人が背後に立つ妻の莉子に声をかけると、莉子は淡々とした声で返した。
「気にしないで。退院の手続きに合わせてスケジュールは調整してあるから。それに、まだ完全に体力が戻ったわけじゃないんだから、無理は禁物よ」
言葉数は少なく、相変わらずドライな態度を崩さない。
リビングに入ると、莉子は足早にダイニングテーブルへと向かった。
「あ……」
莉子はテーブルの上に広げっぱなしになっていたCADの図面を、慌てた手つきで裏返し、他の書類の下へと隠した。
「なんだ、仕事中だったのか?」
「……ええ。急ぎの修正が入って。少し、事務所に戻るわ」
莉子は目を逸らし、隠した図面を抱えて足早に仕事部屋へと消えていった。
隠された図面。それは、現在のプロジェクトのものではなく、莉子が密かに設計を進めている『隼人専用・特注和室(作業場兼用)』の図面だった。
重い畳を持ち上げられなくなったとしても、隼人が座ったままい草の匂いに包まれ、身体に負担をかけずに軽い作業ができるように計算し尽くされた空間。莉子は感情を言葉で表現するのが絶望的に不器用な代わりに、建築家としての全スキルを使って、夫が帰ってくるための居場所を裏で必死に形にしようとしていた。
「お母さんってば、父さんが退院してきたっていうのに、また仕事ばっかり……」
雅が不満げに唇を尖らせたが、隼人は苦笑しながら無骨な手で頭を掻いた。
「いいんだ。母さんには母さんのやり方がある。それに……こうして家に帰ってこれただけで、十分だ」
失うかもしれなかった職人としての未来と、家族と過ごす時間。大胸筋が残された左胸の奥で、隼人は静かな喜びを噛み締めていた。
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すっかり日が落ち、夜の帳が下りた湊元町。
古い下町の路地裏にある小料理屋「まき」の前に、隼人と莉子、雅の三人が立っていた。退院の快気祝いの席だ。
「いらっしゃい!おじさん、退院おめでとう!」
引き戸を開けると、エプロン姿の葉那香が満面の笑みで出迎えてくれた。
「おう、葉那香。世話かけるな」
照れくさそうに入店した隼人は、店内を見渡して少しだけ目を丸くした。
いつもなら常連客の賑やかな笑い声で溢れているはずの店内には、誰一人として他のお客がいなかった。カウンターには、三人のための席だけがゆったりと用意されている。
「大将、無事に帰ってきてくれて嬉しいよ。さあ、今日は水入らずでゆっくりしていってください」
割烹着姿の弥生が、厨房から温かい声をかけた。
「……貸切、にしてくれなくてもいいのに」
「男性乳がん」という特殊で稀な病気を患い、周囲の目を気にして強烈な羞恥心を抱いていた隼人。そんな彼の心情を深く察した葉那香と弥生の計らいで、周囲の目を気にせず過ごせるよう今夜は特別に店を貸切にしてくれていたのだ。
他のお客さんがいないという安心感から、隼人の強張っていた肩の力がスッと抜け、無骨な顔に柔らかな笑みが浮かんだ。
雅が葉那香に向かって「ありがとう」と口パクで伝えると、葉那香は小さくウインクをして返した。
席に着くと、弥生特製の料理が次々と運ばれてきた。
退院したばかりの胃腸に負担をかけないよう、大根の優しい煮物や、汐見野の海で獲れた白身魚の酒蒸しなど、栄養満点でありながら消化に良いメニューばかりだ。莉子も、今日は仕事の連絡を絶ち、お酒を飲めない隼人に合わせてノンアルコールの梅酒を頼んでいた。
「うまい……。やっぱり、弥生さんの飯は五臓六腑に染み渡るな」
ノンアルコールのビールを一口飲み、出汁の効いた煮物を頬張る隼人の顔は、本当に幸せそうだった。
「隼人さん、実はね。これ、常連さんたちからだよ」
弥生がカウンターの下から、綺麗な包装紙に包まれた木箱や、色紙を取り出した。
「これは……?」
「辰男さんや、園田マダムたちからだよ。『大将、退院おめでとう』『無理すんなよ』だって。今日は貸切だから直接言えないけど、みんな大将の帰りを待ってたんだからね」
大工の辰男からのメッセージカードには、乱暴な字で『俺との快気祝いの酒は、一番高いやつを用意しとくからな。早く全快せよ』と書かれており、園田マダムからは汐見野の特産品である『塩レモン』を使った無添加の調味料セットが添えられていた。
自分が病気になった時、男としての尊厳を失い、誰にも会いたくないと孤独の殻に閉じこもっていた。しかし、小料理屋「まき」に集う下町の人々は、誰も隼人を見下したり哀れんだりせず、ただ純粋にその帰りを待ちわびてくれていたのだ。
「……ったく。あいつら、余計な気を遣いやがって」
隼人はぶっきらぼうに悪態をついたが、その目頭は微かに赤く潤んでいた。
「よかったね、父さん」
雅が嬉しそうに笑いかけると、隼人は深く頷いた。
「ああ。……本当に、ありがてぇ隣人ばかりだ」
貸切の静かな店内に、温かい家族の笑い声が静かに響き始めていた。
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小料理屋「まき」の貸切の店内に、温かい料理の湯気と、久しぶりに交わされる八木澤家の穏やかな会話が漂っていた。
退院したばかりの隼人の身体を気遣い、女将の弥生が次々と消化に良い特製料理をカウンター越しに提供していく。ノンアルコールの梅酒を口に運んでいた莉子は、ふとカウンターの奥、常連客のキープボトルが並ぶ棚へと視線を向けた。
そこには、見慣れない一本の古いワインボトルが置かれていた。
ラベルには、乱暴だがどこか見覚えのある字で『莉子へ』と殴り書きされている。
「……弥生さん。あのボトルは……?」
それは、照れ屋の隼人が家には置けず、安全だからと昔この店の女将に預けたまま、意地を張って回収し忘れていた代物だった。
お酒を全く飲まないはずの自分の名前が書かれていることに驚き、莉子が尋ねると、弥生は優しく目尻のシワを深めて微笑んだ。
「やっと気づいてくれたね。隼人さんが、ずっと昔から預けてくれていたものだよ」
弥生は棚からその埃を被ったボトルを下ろし、莉子の目の前にそっと置いた。
そのボトルの銘柄を見た瞬間、莉子の脳裏に、すっかり埃を被っていた遠い過去の記憶が鮮やかに蘇ってきた。




