第21話 夫婦の和解
それはまだ、雅が生まれる前。駆け出しの建築デザイナーだった莉子は、現場で黙々と畳を打つ隼人の妥協のない手仕事に惚れ込んだ。合理的で無駄を好まない莉子と、無駄とも思える下積みを淡々とこなし、無骨で昔気質な隼人。正反対の二人だったが、互いの「ものづくり」への情熱に惹かれ合い、不器用ながらも夫婦となった。
結婚して間もなく、莉子が若手建築家として、初めて大きな建築デザインコンペに受かった夜のことだった。
隼人は、妻の快挙を誰よりも喜び、普段は絶対に入らないような洒落たワイン専門店へと莉子を連れ出した。
『お前のお祝いだ。一番美味そうなやつを選んでやる』
照れくさそうに笑う隼人が手に取ったのは、目玉が飛び出るほど高価なヴィンテージワインだった。
しかし、当時から現実的で合理主義だった莉子は、その値札を見てすぐに首を横に振った。
『ダメよ、こんな高価なワインは私にはまだ早いわ。それに、これからの生活資金だって……』
『金なら俺が稼ぐ。今日くらい、いいじゃねえか』
『ううん。……じゃあ、こうしましょう。次の大きい仕事が決まったら、その時に二人でこれを買って開けましょう』
莉子の提案に、隼人は渋々といった様子で『わかったよ、約束だぞ』と頷いた。
しかしその後、莉子が建築デザイナーとして次々とコンペを勝ち取り、独立して事務所を立ち上げるほど多忙を極めるようになると、夫婦の会話は少しずつ減っていった。
次の仕事が決まった時も、その次も。互いにすれ違う日々の中で、あの日交わした「二人でワインを開ける」という約束は、日々の業務と生活音の中に埋もれ、いつしか莉子の記憶から完全に抜け落ちてしまっていた。
だが、隼人は違った。
彼は莉子に内緒であの高価なワインを買い、小料理屋「まき」に預けていたのだ。いつか、妻と一緒に笑い合いながらこの封を切る日を、ぶっきらぼうな態度の裏で、何年もの間ずっと一人で待ち続けていたのである。
+++
「……あなた」
莉子は震える手で、ボトルのラベルに触れた。
隣に座る隼人を見ると、彼はひどくバツが悪そうに視線を泳がせ、湯呑みの白湯を啜っていた。
「昔の、バカな約束の残りカスだ。……まさか俺がこんな病気になって、酒も飲めない身体で退院祝いをやることになるなんて、思ってもみなかったがな」
隼人は自嘲気味に笑った。
その横顔を見た瞬間、莉子の中で、長年分厚く氷張っていた「合理主義」の殻が、音を立てて崩れ去った。
仕事の効率や、感情を切り捨てる正論ばかりを優先し、夫が抱えていた不器用な愛情や、男としてのナイーブな心情に寄り添おうとしてこなかった自分。自分が図面ばかりを見つめている間、この人はずっと、昔の二人の原点である約束を大切に守り続けてくれていたのだ。
「弥生さん……ソムリエナイフを、貸してください」
莉子は顔を上げ、静かな、けれど熱を帯びた声で言った。
弥生からナイフを受け取ると、莉子は自らの手でワインの封を切り、コルクにスクリューを突き立てた。普段、CADソフトを高速で操る無駄のない手つきとは違う。その手は小刻みに震え、何度も手元を狂わせた。
ポンッ、と低い音を立ててコルクが抜ける。
熟成された芳醇な香りが、貸切の店内にふわりと広がった。
莉子はグラスを二つ引き寄せ、深い赤色の液体を注いだ。
そして、自分のグラスを両手で包み込むように持ち上げ、隼人を真っ直ぐに見つめた。眼鏡の奥の瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ落ちている。
「……遅くなって、ごめんね」
それは、合理主義の妻が、何十年ものすれ違いを経てようやく言葉にした、心からの謝罪と愛情だった。
「私、仕事ばっかりで……あなたとすれ違いばかりして。病気になった時も、ひどいこと言って……。あなたがずっと、待っててくれたのに」
しゃくり上げながら涙を流す妻の姿に、隼人は言葉を失い、ただ目頭を熱くしてその顔を見つめ返した。
そして、隼人は声を絞り出した。
「おめでとう。莉子」
グラスが軽く触れ合う。お酒を飲まないはずの莉子が、一口だけワインを口に含んだ。
隼人もまた、ほんのわずかに唇を湿らせた。
長い年月を経てようやく開けられたその酒は、不器用な夫婦の間のわだかまりを、熱く優しく溶かしていった。
「……おいしいなぁ。莉子」
隼人はグラスを置き、深く息を吐き出した。
妻の涙と、待ち続けた酒の力が、頑なに守り続けてきた職人の意地と強がりを解いていく。
「俺は……本当は、怖かったんだ」
静かな店内に、隼人の低く掠れた声が響いた。
「男が女の病気になったのが恥ずかしいとか、胸を切り取られるのが情けないとか、そんなことばっかり喚いてたけどよ。……本当は、死ぬのが怖かった」
これまで絶対に家族に見せようとしなかった、生身の弱音だった。
「雅を置いていきたくない。お前を残して、一人で死にたくない……っ。俺はまだ、この家族と一緒に生きていたかったんだ」
顔を歪め、分厚い手で涙を拭う父親の姿を見て、隣に座っていた雅がたまらずしがみついた。
「父さん……っ」
雅は父親の厚い胸板に顔を埋め、声を上げて泣きじゃくった。
「どこにも行かないよ!私たちは家族なんだから、ずっと一緒にいるんだから!」
莉子もまた、夫の節くれだった硬いタコのある手を両手で強く握りしめ、何度も何度も頷いた。
(お母さんにも、ちゃんと心があったんだ……。あんな風に泣くところ、初めて見た)
まだ「あんな冷たい女」と言ってしまった気まずさは残っているけれど、母親に対する氷のような嫌悪感は、確実に溶け始めていた雅であった。
冷え切ってバラバラだった八木澤家の心は、この夜、互いの弱さと本音を曝け出すことで、かつてないほど強く温かく結び直されたのである。
カウンターの中では、もらい泣きをしている葉那香の肩を、弥生が優しく抱き寄せていた。二人は、不器用な家族の再生を、ただ静かに、そして温かく見守り続けていた。
+++
快気祝いを終え、小料理屋「まき」を出ると、汐見野の街には夏の夜の生暖かい潮風が吹いていた。
少し前を、腕を組むようにして歩く隼人と莉子の背中が見える。二人の距離は、もう以前のように離れてはいない。
後ろを歩いていた雅は、ふと立ち止まり、見送りのために店の外まで出てきていた葉那香に向かって振り返った。
「……葉那香」
「ん?どうしたの、雅」
エプロン姿の葉那香が、小首を傾げて微笑む。
「今日は……本当に、ありがとう。お店、貸切にしてくれて」
雅は深く頭を下げた。
「葉那香のおかげで、父さんもお母さんも、やっと素直になれた。私一人じゃ、絶対に無理だったよ」
父親との確執を乗り越え、しっかりと家族の輪の中に戻ることができた雅の顔には、もう反抗期の刺々しさは微塵も残っていない。
葉那香は優しく首を横に振り、雅の手をギュッと握り返した。
「ううん、私は場所を用意しただけ。雅が一番大切なものを思い出して、ちゃんとおじさんたちに向き合ったから。綻びかけていた家族の絆を結び直したのは、誰でもない雅自身なんだよ」
葉那香は、自身の日常に父親がいない喪失感を抱えて育ったからこそ、親友の家族が再び一つになれたことが自分のことのように嬉しかった。
「……うん。葉那香は、やっぱり私の最高の『知己』だよ」
雅が照れくさそうに言うと、葉那香は弾けるような笑顔を見せた。
「知ってる!私にとっても雅は最高の知己だし!じゃあ、明日また学校でね!」
潮騒の音が遠く響く中、雅は大きく手を振り返し、歩き出した両親の背中を追って走り出した。
その足取りは軽く、汐見野の坂道を上っていく彼女の心には、温かな夏の夜風が心地よく吹き抜けていた。




