第22話 進路の迷い
八月上旬。汐見野市は、肌を刺すような強い日差しと、海から吹き上げる湿った潮風に包まれていた。
県立しおみの海風高等学校の教室からは、どこまでも続く深い藍色の外海が太陽の光を反射してギラギラと輝いているのが見える。窓を開け放っていても、入ってくるのは生温かい風ばかりだった。
夏期講習の午後の授業が終わり、大半の生徒が足早に部活動や下校へと向かう中、雅は自分の席に残り、一枚のプリントを見つめていた。
『進路希望調査票』。
雅のペンは、第一志望の欄に『デザイン・美術系の大学進学』と書き込んだまま、そこで止まっていた。
(これで、いいのかなぁ……)
雅は小さくため息をつき、手元のシャープペンシルをクルクルと回した。
幼い頃から、母である莉子の建築デザイナーとしての姿を間近で見て育った雅にとって、デザインや空間設計の道に進むことは、ごく自然な選択のはずだった。中学時代にはポスター画で全国規模のコンペに入選した実績もある。美的センスと集中力には自信があった。
「八木澤、まだ残ってたのか」
不意に声をかけられ、雅はハッと顔を上げた。
教壇の片付けを終えた担任の男性教師が、雅の机を覗き込んできた。
「進路希望調査票か。八木澤は昔から絵が上手かったしな。お母さんと同じ、建築やデザインの道に進むつもりか?」
「あ……はい。そのつもり、です」
雅が曖昧に頷くと、担任は感心したように微笑んだ。
「お母さんの事務所で手伝いなんかをしてるなら、実践的な強みになるな。頑張れよ」
「ありがとうございます」
担任が教室を出て行った後、雅は再び調査票に視線を落とした。
『お母さんと同じ道』。
以前の雅なら、微塵の迷いもなく「はい」と答えていたはずだった。合理的で洗練された母の仕事は、雅にとって唯一の憧れだった。泥臭くて、いつも青臭いい草の匂いをさせている父の仕事とは正反対の、美しい世界だと思っていたからだ。
しかし今、担任の言葉を聞いた瞬間、雅の頭の中に無意識に浮かんだのは、母の事務所の洗練された図面だけではなかった。
分厚い畳床。太い畳針を引く、節くれだった大きな手。
指先に巻かれた独特の絆創膏と、部屋の寸法に合わせて畳表を狂いなく縫い上げる、父の静かで力強い息遣い。
(……なんで今、父さんの仕事のことが浮かんだんだろ)
雅は戸惑いながら、胸元に手を当てた。
六月に左乳房の全切除手術を受けた父・隼人は、無事に退院し、現在は自宅で療養を続けている。大胸筋は温存されたものの、術後の痛みや体力の低下は著しく、まだ以前のように重い畳を担ぐことはできていなかった。
父が弱っていく姿を見たからこそ、あの大きく威圧的だった「職人としての父」の姿が、雅の心に強く焼き付いていたのだ。
『実家の畳の寸法や素材』。以前なら目も向けなかったそんな泥臭い手仕事の記憶が、デザインという洗練された道を選ぶ自分の足元を、不思議な引力で引き留めているような気がした。
「雅ー!お待たせ!」
教室の入り口から、元気な声が響いた。
顔を上げると、放送部の活動を終えた葉那香が、額の汗を拭いながら立っていた。ショートボブの髪が夏風に揺れている。
「お疲れ、葉那香。放送終わったの?」
「うん!って、聞いてなかったんかい!今日の校内放送は夏バテ対策特集でした。……あれっ、雅、まだ進路希望調査票出せてないの?」
葉那香が雅の手元を見て、少しだけ首を傾げた。
「うん……ちょっとね」
雅はプリントを半分に折りたたみ、手早くスクールバッグに押し込んだ。
「行こっか。暑いし、早く帰りたい」
「うん!」
二人は教室を出て、海へと突き出た高台にある校舎の階段を下りていった。
学校の正門を抜けると、眼下に汐見野の街並みと広大な海が広がる『風待坂』に出る。夏特有のじりじりとした照り返しがアスファルトから立ち上り、遠くの景色が陽炎で微かに歪んでいた。
坂道を下りながら、葉那香が心配そうに雅の横顔を覗き込んだ。
「雅、進路悩んでる?」
真っ直ぐな問いかけに、雅は少しだけ歩みを遅くした。
親友である葉那香には、見透かされているような気がした。父親が病気になった時、誰よりもズカズカと踏み込んできて、冷え切っていた家族の絆を結び直すきっかけをくれたのは、他ならぬ葉那香だったからだ。
「……ううん。悩んでるっていうか」
雅は視線を足元の石畳に落とし、ぽつりと言葉を紡いだ。
「私、ずっとお母さんの仕事ばかり見てたじゃない?綺麗で、無駄がなくて、計算し尽くされてて……私もあんな風に、スマートに何かをデザインする大人になりたいって思ってた」
「うん」
「でもね……。最近、ちょっと考えるの」
雅の脳裏に、小料理屋「まき」での快気祝いの夜のことが蘇った。
『俺はまだ、この家族と一緒に生きていたかったんだ』と泣き崩れた父の姿。そして、退院後、作業場の前を通るたびに、どこか寂しそうに畳道具を見つめている父の背中。
「父さんも、ずっと何かを創り出す仕事をしてたんだなって」
雅の声は、潮風に溶けるように優しかった。
「私が『臭い』とか『手がガサガサだ』って嫌ってたあの仕事も、何十年もかけて、お客さんのために足の裏の感覚一つまでこだわって……一つの空間を創り上げる、すごい仕事だったんだなって。父さんが病気になって、ようやく気付いたっていうか、なんというか」
雅は自嘲気味に小さく笑った。
葉那香は、雅の言葉を遮らずに静かに聞いていた。
「おじさんの手、大きくて硬くて、すごく温かいもんね」
「……うん。あの手で、ずっと私たち家族を支えてくれてたんだと思うと……」
海からの強い風が吹き抜け、雅の肩下まで伸びたストレートロングの髪を大きく揺らした。
雅は顔を上げ、眩しそうに海を見つめた。
デザインや美術の道を諦めるつもりはない。だが、自分が目指すべき「ものづくり」の根底には、母の合理的な美しさだけでなく、父のあの泥臭く、しかし確かな温もりを持つ手仕事の精神も必要なのではないか。
進路希望調査票に書かれた『デザイン・美術系の進学』という文字が、以前とは少し違う、より深く複雑な意味を持ち始めていることを、雅自身が一番強く感じていた。
「そっか」
葉那香が、ふわりと温かい笑みを浮かべた。
「雅なら、どっちの良さも分かる、すごいデザイナーになれるよ。私、応援してるから!」
「……大袈裟なんだから」
雅は照れ隠しに葉那香の肩を軽く小突いた。
「でも、ありがと。葉那香に話したら、少しスッキリした」
二人は笑い合いながら、夏の強い日差しが降り注ぐ風待坂をゆっくりと下っていった。
遠くで響くディーゼル列車の音が、雅の背中を優しく押しているように聞こえた。




