第23話 夕暮れの八木澤畳店
夕暮れ時。汐見野の街が茜色に染まる頃、雅は自宅の八木澤畳店へと帰り着いた。
母屋へ向かおうとした雅の耳に、作業場の方から話し声が聞こえてきた。
そっと覗き込むと、い草の香りが漂う薄暗い作業場に、父・隼人と、杖をついた見知らぬ高齢の男性が向かい合って立っていた。
その男性は、隼人が若い頃から贔屓にしてくれている古くからの顧客だった。口うるさいが目は確かな、長年付き合いのあるお得意さんである。
「……わざわざ足をお運びいただいて、申し訳ありやせん」
隼人は深く頭を下げていた。
「実は今日、お電話で申し上げようと思っていたんですが……今回の畳の張替え依頼、どうか他所を当たっていただけないでしょうか」
隼人が、長年付き合いのあるお得意さんからの依頼を自ら断ろうとしていた。
雅はハッとして息を潜めた。
六月の手術で大胸筋は温存されたものの、隼人の体力はまだ完全には戻っていない。分厚い畳床を持ち上げ、太い畳針に力を込める作業は、今の隼人の身体にはあまりにも辛い負担だったのだ。
「大将。あんた、身体を壊したってのは本当だったんだな」
杖をついた顧客は、隼人の少し細くなった肩と、力なく下げられた無骨な手を見て、静かに目を細めた。
「ええ。情けねえ話ですが、今は重い畳を担ぐ力が入りません。中途半端な仕事をして、旦那の家の座敷を汚すわけにはいきませんから……」
職人としてのプライドがあるからこそ、隼人は苦渋の決断を下していた。
しかし、顧客は首を横に振った。
「他所を当たれって?冗談言っちゃいけねえ。俺はな、あんたの顔を見にわざわざここまで来たんだ」
顧客は杖をトンと床に突き、真っ直ぐに隼人を見据えた。
「他の職人が機械で縫ったペラペラの畳なんかじゃダメなんだ。あんたの魂で打った畳じゃなきゃ、俺の足の裏に虫唾が走るんだよ」
その言葉に、隼人は顔を上げた。
「旦那……」
「歳をとって身体が痛むのは、お互い様だろうが」
顧客はしわくちゃの顔に温かい笑みを浮かべ、隼人の肩をポンと軽く叩いた。
「急ぎの仕事じゃねえ。いつまでだって待つから、あんたの手で拵えておくれよ」
頑として譲らない顧客の深く温かい言葉に、隼人は言葉を失い、目頭を熱くしてただ深く、深く頭を下げた。
作業場の入り口の影でそのやり取りを聞いていた雅は、胸の奥がギュッと締め付けられるような衝撃を受けていた。
(父さんの仕事って……)
これまで雅は、父親の仕事を「泥臭い」「ガサガサの手でみっともない」と嫌悪し、見下してきた。
しかし、目の前で繰り広げられている光景はどうだろうか。
あのお得意さんは、わざわざ足を運んでまで、父の打つ畳を求めている。父の節くれだった手から生み出される仕事が、他者からこれほどまでに深く愛され、尊敬されているのだという事実を、雅はまざまざと思い知らされたのである。
スマートで洗練された母の仕事とは違う。泥臭くて、汗と青臭い匂いにまみれた父の仕事。しかしそこには、人の心と生活の根底を支える、途方もない温もりと職人の誇りがあった。
やがてお得意さんが帰り、作業場には再び静寂が戻った。
隼人は作業台の前に力なく座り込み、自分の手のひらをじっと見つめていた。
仕事がしたい。待ってくれているお客のために、あの分厚い畳を縫い上げたい。けれど、身体が辛くて思うように動かない。
その背中からは、職人としてのどうしようもないもどかしさと、深い孤独が滲み出ていた。
雅は、スクールバッグの持ち手をギュッと握りしめた。
先ほど、風待坂で葉那香に語った言葉が脳裏に蘇る。
『父さんも、ずっと何かを創り出す仕事をしてたんだなって』
頭で理解しただけじゃない。今、目の前でそれを確信したのだ。
このまま父を一人にしておけない。父の誇りを、ここで終わらせてはいけない。
雅は意を決し、作業場の中へと足を踏み入れた。
「……父さん」
突然の娘の声に、隼人はビクッと肩を震わせて振り返った。
「雅……?お前、帰ってたのか」
隼人は慌てて立ち上がり、自分の手のひらを隠すように背中に回した。弱っている姿を、娘に見られたくなかったのだ。
雅は無言のまま作業台に歩み寄り、ポンとスクールバッグを置いた。
そして、漂うい草の匂いから逃げることなく、真っ直ぐに父親の目を見据えた。
「あのさ」
雅の口から出たのは、これまで父親に向けていた棘のある言葉でも、冷たい言葉でもなかった。
「私が手伝うから、やろうよ。あの人の畳」
「……は?」
隼人は間抜けな声を出し、目を丸くした。
「な、何を馬鹿なこと言ってんだ。お前、畳の仕事なんてしたことないだろうが。それに、お前はこの匂いも、俺の手も嫌いだったはずだ」
「嫌いだったよ。今でもちょっと臭いと思ってるし」
雅はフッと笑った。
「でも、さっきのお客さんの顔見たら……父さんの仕事、すごいんだなって思ったから。重いものを持ち上げたり、力が必要なところは私がやる。父さんは、その手で縫うことだけ考えてよ」
「雅……お前……」
「いいから、やり方教えて。私も父さんとお母さんの血を引いているんだから、手先の器用さには自信あるんだからね」
雅は制服の袖をまくり上げ、真っ直ぐな瞳で父親に迫った。
これまで、家族の中で孤立し、仕事の重圧も病気の恐怖もすべて一人で背負い込んできた隼人。その頑固な職人の目に、じわりと熱いものが込み上げてきた。
「……バカ野郎。畳針を引くのは、遊びじゃねえんだ。指が裂けるほど痛みがあるんだぞ」
「覚悟の上だよ。それに、私が手伝うって言ってんだから、父さんは素直に喜べばいいじゃない!」
照れ隠しに声を荒げる雅を見て、隼人はとうとう観念したように息を吐き、無骨な顔に柔らかな笑みを浮かべた。
「……わかった。ただし、やるからには泣き言は聞かねえからな」
「言わないよ。だから……よろしく頼みます。親方」
夕陽が差し込む作業場で、い草の香りに包まれながら、不器用な父と娘が初めて同じ方向を向いた瞬間だった。
雅にとって、これは単なる手伝いではない。自分が進むべき「ものづくり」の道を確かめるための、そして何より、愛する父の誇りを守るための、大きな一歩だった。




