第24話 畳針の痛み
八月下旬。汐見野市には、まだ色濃く夏の残暑が居座っていた。海から吹き上げる風は湿り気を帯び、蝉の鳴き声が遠くの木々から絶え間なく響いてくる。
八木澤畳店の作業場には、今日も青臭いい草の香りが満ちていた。
雅は、父・隼人が若い頃に着ていたという少しぶかぶかの作業着を身にまとい、袖と裾をまくり上げて作業台の前に立っていた。ストレートロングの髪は、邪魔にならないよう後ろでキツく一つに結んでいる。
手術を終え退院したものの、まだ体力が完全に戻っていない隼人に代わり、お得意さんからの依頼を仕上げるための手伝いだった。がん再発を予防する通院治療の副作用もあってか、隼人の体は目に見えて痩せていた。
「いいか、雅。この畳表を引っ張る時は、ただ力を入れりゃいいってもんじゃねえ。シワが寄らねえように、均等にテンションをかけるんだ」
隼人が傍らで、太い畳針を手にして手本を見せる。
分厚い畳床に針を突き立て、麻糸を力強く引き抜く。隼人の胸の奥、大胸筋が温存された左胸が微かに上下し、息が荒くなるのが分かった。
「わかった。貸して」
雅は父から太い畳針を受け取り、見様見真似で分厚い畳床に向き合った。
針の頭に手のひらを当て、体重をかけて押し込む。
「ッ……固い!」
想像以上の抵抗だった。現代の畳屋は大型ミシンを使うが、隼人は昔ながらの手縫いにこだわっている。幾層にも重ねられた硬い藁の束を貫くのは、至難の業だった。
「腰を落とせ。腕の力だけでやろうとするな」
隼人のぶっきらぼうな指示に従い、雅は腰を落として全身の力を針に込める。ギリリと鈍い音を立てて針が貫通し、今度は裏側から麻糸を力の限り引き抜いた。
最初は手探りだった雅だが、数十分もすると、その動きに明らかな変化が表れ始めた。
幼い頃から、母・莉子の緻密な設計図を間近で見て育った雅には、生まれ持った空間把握能力と高い観察眼、そして手先の器用さがあった。
隼人が次にどの道具を必要としているか。どこに針を通そうとしているか。雅は言葉で指示される前に、隼人の視線と手元の角度から次の動作を察知し、スッと畳縁を押さえ、必要な道具を差し出した。
「……」
隼人は内心、目を丸くしていた。
(なんだ、この阿吽の呼吸は……。昨日今日手伝いを始めた素人の動きじゃねえぞ)
反発ばかりしていた娘の中に、間違いなく自分と妻の「ものづくりの才」が色濃く受け継がれていることを、隼人は肌で感じ取っていた。
「父さん、次は下縫いであってる?」
「あ、ああ。そこは俺がやるから、お前はこっちの端を引っ張ってろ」
言葉数は少ないが、親子の間には、確かなリズムが生まれ始めていた。
しかし、そのリズムが長く続くことはなかった。
作業開始から二時間が経過した頃、渾身の力を込めて麻糸を引き抜いた瞬間、雅の口から「痛ッ!」という鋭い悲鳴が漏れた。
畳針を取り落とし、雅は自分の指先を強く握りしめた。
太く硬い麻糸を素手で何度も引き続けたせいで、雅の細い指の皮は無惨に擦り切れ、そこから赤い血がじんわりと滲み出していたのだ。
指が裂けそうなほどの激痛が、容赦なく雅を襲う。
「やっちまったか!貸してみろ」
隼人が血相を変えて作業を止め、雅の手を強引に引き寄せた。
「いいよ、これくらい……。まだ縫えるから」
強がる雅だったが、その手は小刻みに震えていた。
太い畳針を引くのがどれほど過酷な重労働であるかを、雅は身をもって痛感していた。
(父さんはこれを……何十年も、毎日やってきたんだ……)
汗と埃にまみれ、身体を酷使して分厚い畳を縫い上げる。自分が「泥臭い」と見下していた仕事の凄みと、職人としてのすさまじい執念が、ズシリと重く雅の胸にのしかかった。
隼人は無言のまま救急箱を持ってくると、雅の隣にドカッと腰を下ろした。
「痛いって言っただろうが。意地張るな」
そう言うと、隼人は自分の分厚く節くれだった手で雅の小さな指をそっと包み込み、慣れた手つきで消毒液を塗り、絆創膏を独特の巻き方でしっかりと固定していった。
「……痛ぇのは、当たり前だ」
隼人は雅の指先にそっと息を吹きかけ、絆創膏の端を丁寧に押さえながら言った。
「畳ってのはな、決して空間の主役じゃねえ。下駄や草履を脱いだ人間が、ふっと心を落ち着けるための、ただの素朴な床だ。だが、その上で人は笑い、泣き、生きていく。憩いの場になり、稽古の場になり……祝い事の歓声も、弔事の涙も、全部の人情を解放させて、その重みを丸ごと増幅させたり吸い取ってやる。そんな場所を拵える仕事だからこそ、職人の指先にはこれだけの痛みが伴うんだ」
隼人は雅の細い指先を包むように握り、諭すように目を細めた。
「誰かの心を支えるってのは、それくらい骨の折れる、責任重大な仕事なんだよ」
その時、雅の手のひらに、隼人の硬いタコが擦れた。
幼い頃から「ガサガサしてて痛い」「みっともない」と嫌悪し、思春期に入ってからは触れることすら拒絶してきた、あの無骨な手だ。
しかし今、その手の硬さは少しも嫌じゃなかった。
むしろ、途方もなく温かく感じられた。
(このタコは……)
雅は、絆創膏を巻いてくれる父の手をじっと見つめた。
指先の傷、手のひらの硬いタコ。それは、家族を養うために、父が何十年もかけて自分の時間と身体を削り、愛を形にしてきた「証」そのものだった。
その事実を深く理解した瞬間、雅の目からポロリと大粒の涙がこぼれ落ちそうになった。
雅は慌てて瞬きをして涙を堪え、父の大きな手を二度と払いのけることはしなかった。
「……ほら、一丁上がりだ」
隼人が絆創膏を巻き終え、照れくさそうに手を離した。
「ありがと、父さん」
雅は、痛々しく絆創膏が巻かれた自分の指先を見つめ、フッと柔らかく笑った。
「父さんの手と、お揃いになっちゃったね」
「バカ野郎。こんな傷だらけの手、女の子が喜ぶもんじゃねえぞ」
ぶっきらぼうに悪態をつきながらも、隼人の目元は微かに潤んでいた。
「私は、誇りに思うよ」
雅は絆創膏の巻かれた指を丸め、夕陽の差し込む作業場の中で、真っ直ぐに父を見て微笑んだ。
い草の匂いと、痛む指先。それらは今や雅にとって、父の深い愛情と誇りを共有する、何より大切な宝物へと変わっていた。




