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知己の父の乳がガン  作者: 団田図


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第25話 職人の勲章

 太陽が汐見野《しおみの》の西の海へと沈みかけ、空が深い茜色から群青色へと移り変わる頃。

 仕事を終えた母・莉子が、自宅である八木澤《やぎさわ》家へと歩みを進めていた。

 カバンの中には、今日も修正を重ねた緻密な図面が入っている。ヒールの音を響かせて母屋へ向かおうとした莉子の耳に、作業場の方から規則正しい音が聞こえてきた。


 ザッ、ザッ、という藁を擦る音と、時折響く力強い息遣い。

 莉子は不思議に思い、作業場の入り口の影からそっと中を覗き込んだ。


 薄暗くなりかけた作業場の中には、裸電球の温かい光に照らされた夫と娘の姿があった。

 雅がぶかぶかの作業着姿で、真剣な眼差しで分厚い畳床《たたみどこ》に向き合っている。その隣には、病み上がりでありながらも、職人としての鋭い目つきを取り戻した隼人がいた。

 二人の指先には、同じように白い絆創膏が何重にも巻かれている。


「雅、そこはもう少し引っ張れ」

「うん、わかった。……こう?」

「ああ、いいぞ。そのまま針を通せ」


 不器用で、これまで顔を合わせれば反発し合っていた二人が、い草の青臭い香りに包まれながら、一つの畳を縫い上げるために見事な連携を見せている。

 莉子は、その光景から目を離せなかった。

 作業場に響き渡る、リズミカルな畳打ちの音。そして、鼻をくすぐる新しいい草の匂い。


(……懐かしい)

 莉子の胸の奥に、すっかり埃を被っていた若い頃の記憶が鮮やかに蘇ってきた。

 まだ自分が駆け出しの建築デザイナーだった頃。仕事に行き詰まり、ボロボロになっていた彼女の心を癒してくれたのは、隼人が黙々と畳を打つ、この規則正しい音と匂いだったのだ。

 合理的で無駄のない建築デザインを目指していた莉子が、自然素材の温かみと、決して妥協を許さない職人の手仕事に惚れ込み、自身のデザインの原点とした場所。


(雅も、ようやく気付いたのね。お父さんの職人としての、本当の凄さに)

 莉子は眼鏡の奥の目を細め、静かに微笑んだ。

 夫と娘の間に流れる、誰にも邪魔できない濃密な時間。合理的で冷徹に振る舞う自分が出る幕は、今のあの場所にはない。

 莉子は声をかけることなく、心地よい畳打ちの音を背中で聞きながら、少しだけ弾むような足取りで母屋へと向かっていった。


 +++


 母屋のリビングに戻った莉子が図面に向かっていると、ほどなくして作業を終えた隼人と雅が入ってきた。二人からは、青臭いい草の匂いと汗の匂いが漂っている。

「莉子。今日の分は片付いた。これから雅と『まき』で飯を食ってこようと思うんだが、お前もどうだ?」

 隼人が少し照れくさそうに誘った。

 莉子は手を止め、絆創膏だらけになった夫と娘の手を交互に見つめた。

「……今日は遠慮しておくわ。ちょうど仕事が大詰めなの」

 莉子は、手元にある『隼人専用・特注和室』の図面をそっと隠しながら答えた。

「そうか。無理はするなよ」

「お母さん、たまには息抜きすればいいのに」

 雅が少し不満げに口を尖らせるが、莉子は眼鏡の奥で優しく微笑んだ。

「あなたたちこそ、今日は二人でゆっくりしておいで。……雅、お父さんを手伝ってくれたのね。ありがとう」

 普段の淡々とした響きとは違う、どこか温かい母の声に、雅は少し驚きながらも嬉しそうに頷いた。


 +++


 すっかり夜の帳が下りた湊元町《みなともとまち》の路地裏。

 赤提灯が揺れる小料理屋「まき」の引き戸が、ガラガラと音を立てて開いた。


「いらっしゃいませー!……って、ええっ!?」

 カウンターの中から元気よく声をかけた葉那香《はなか》が、目を丸くして固まった。

 店に入ってきたのは、い草の香りと汗の匂いを漂わせた、作業着姿の隼人と雅だった。一仕事を終えた二人は、着替える間も惜しむように、そのままの格好で暖簾をくぐってきたのだ。


「あらまあ!雅ちゃん、どうしたのその格好!」

 カウンター席で上品にグラスを傾けていた常連の園田《そのだ》マダムが、驚きの声を上げてどよめいた。

「ふふ、ちょっと父さんに弟子入り体験をしてきたの」

 雅は少し照れくさそうに笑い、隼人と並んでカウンターの隅に腰を下ろした。


 園田マダムは、雅の手元を見てさらに目を丸くした。

「まあ!雅ちゃん、お父さんとそっくりな手になっちゃって!」

 マダムの言う通り、隼人の分厚い手にも、雅の細い指先にも、痛々しい絆創膏がいくつも巻かれていた。

 厨房の奥から出てきた女将の弥生が、その手を見て全てを察したように優しく微笑んだ。


「お疲れ様。今夜は、雅ちゃんが隼人さんの手伝いをした特別なお祝いだね」

 弥生はそう言うと、手早く二人の前に即興のお通しを並べた。

「ほら、汐見野名物、寒鰆《かんざわら》の灰干しと、大根の煮物だよ。手が痛くても食べやすいように、一口サイズに切っておいたからね」

「弥生さん、すいません。……いただきます」

 雅が箸を持つと、絆創膏の巻かれた指関節が引きつり、微かに顔が歪んだ。太い畳針を一日中引き続けたせいで、指先だけでなく、腕全体が鉛のように重く、筋肉痛を訴えている。


 その様子を心配そうに見ていた葉那香が、雅の隣から身を乗り出した。

「雅……手、すごく痛そう。本当に大丈夫なの?」

 葉那香の問いかけに、以前の雅なら間違いなく「最悪。もう二度とやらない」と愚痴をこぼしていただろう。

 しかし、今の雅は違った。

 雅は絆創膏だらけの両手を顔の高さまで持ち上げると、葉那香に向けてこれ見よがしに見せつけた。

「痛いけど、へっちゃら。これはね、職人の勲章だからね!」

 雅は痛む指先を丸めながらも、親友の前で誇らしげに胸を張って笑った。自分がどれほど尊い仕事を手伝い、父の誇りを守る一翼を担ったのか。その喜びに満ちた笑顔だった。


「……ったく。たった一日手伝ったくらいで、一人前の職人気取りってか」

 隣で安い焼酎のグラスを傾けていた隼人が、ぶっきらぼうに鼻を鳴らした。

「なによ、父さん。私が手伝ってくれて助かったって素直になりなよ!」

 雅がむくれて抗議すると、隼人は焼酎を一口飲み込み、グラスの氷をカラリと鳴らした。


「……まあ、初日にしては筋は悪くなかった」

 ポツリとこぼれ落ちた、父親からの不器用な最大の賛辞だった。


「えっ……本当!?」

 雅の顔が、パッと明るく輝く。

「ああ。図面を見慣れてるせいか、次に何が必要か察する目は持ってる。だが、針を引く力はまだまだヒヨッコ以下だ。明日からはもっとしごくからな、覚悟しとけ」

「望むところだよ!絶対に音を上げないんだから!」


 言い合いながらも、二人の間には隠しきれない親子の温かい絆が満ち溢れていた。

 園田マダムが「ふふふ、すっかり良い子弟コンビね」と目を細め、葉那香も「雅、かっこいいよ!」と拍手を送る。

 い草の匂いが微かに漂う小料理屋の店内に、笑い声が絶え間なく響く。

 職人としての誇りを繋ぎ、互いの手を認め合った父と娘の夜は、汐見野の温かい人情に包まれながら、ゆっくりと更けていった。

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