第26話 夢と希望
九月中旬。汐見野市に吹き込む海風には、夏の湿り気に代わって微かな秋の冷たさが混じり始めていた。
八木澤家のダイニングには、温かい夕食の匂いと、作業場から漂ってくる新しいい草の香りが入り混じっている。お得意さんの畳を無事に納品し、父である隼人の職人としての執念と凄みを肌で感じた雅は、この数日間、ずっと自分の内側で一つの決意を固めていた。
食後の温かいお茶を一口飲み、雅は両親を真っ直ぐに見据えた。
「……お父さん、お母さん。私、進路決めたから」
改まった娘のトーンに、隼人は湯呑みを持ったまま動きを止め、莉子は広げかけていた図面から顔を上げた。
「進路って……お前、この間までデザイン系の大学に行くって言ってなかったか?」
隼人が尋ねると、雅は静かに頷いた。
「うん。大学の建築学科、空間・環境デザイン専攻の推薦入試を受けることにした」
「建築学科……」
莉子の眼鏡の奥の瞳が、僅かに見開かれた。
「私ね、ずっとお母さんの作る、洗練された空間に憧れてた。でも、この間お父さんの仕事を手伝って、あの分厚い畳を打つ音と、お客さんの嬉しそうな顔を見て……気付いたの」
雅の視線が、隼人の分厚く節くれだった手と、莉子のシャープな指先を交互に捉える。
「私、お母さんの現代的な建築デザインと、お父さんの畳みたいな自然素材を融合させた空間デザインを学びたいの。ただ綺麗なだけじゃない、人の生活の根底を温めるような場所を作れるようになりたい」
その言葉は、迷いのない透き通った響きを持っていた。
(……雅)
隼人は、娘の言葉に言葉を失った。これまで自分の仕事を「泥臭い」「臭い」と嫌悪してきた娘が、自らの進む道に『畳』を組み込もうとしているのだ。
「……お前、本気で言ってんのか。泥臭くて、手も傷だらけになるような世界だぞ」
「本気だよ。職人の勲章だもん、へっちゃら」
雅は絆創膏の跡が残る自分の指先を見つめ、誇らしげに笑った。
「推薦入試に向けて、図面もパースもいっぱい描かなきゃいけないから。お母さん、色々と教えてね」
「……ええ。もちろんよ」
莉子は、胸の奥から込み上げてくる熱いものを堪えるように、深く頷いた。
「じゃあ、私部屋でスケッチの続き描くから。ごちそうさま!」
雅は自分の食器を手早く片付けると、弾むような足取りで自室へと戻っていった。
パタンと扉が閉まり、ダイニングには夫婦二人だけが残された。
静寂の中、隼人が手元の湯呑みを見つめたまま、ぽつりとこぼした。
「……俺たちの意地っ張りが、あいつの中で一つに繋がったんだな」
長年、仕事へのプライドゆえにすれ違い、互いの痛みに寄り添えなかった不器用な夫婦。しかし娘は、その両極端な親の背中をしっかりと見て、自分なりの未来を描き出そうとしている。
「……ええ、本当に……」
莉子は眼鏡を外し、目元をそっと指先で拭った。
「私たち、ずっと間違ってばかりだったけど。雅にだけは、ちゃんと想いが届いていたのね」
「ああ。……負けてられねえな」
隼人は、大胸筋が温存された左胸にそっと手を当て、無骨な顔に柔らかな笑みを浮かべた。夫婦の間に流れる空気は、かつての冷え切ったものとは違い、深く温かいもので満たされていた。
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同時刻、湊元町の路地裏にある小料理屋「まき」。
暖簾を下ろし、常連客たちが帰った後の静かな店内で、葉那香はカウンターを丁寧に拭き上げていた。
「お疲れ様、葉那香。今日も助かったよ」
厨房から出てきた母の弥生が、二つの湯呑みと、賄い用の出汁巻き卵をカウンターに置いた。
「ううん、全然。……ねえ、お母さん」
葉那香は布巾を置き、弥生の正面に座った。その表情は、いつもお客さんに向けているような愛嬌のある笑顔ではなく、真剣そのものだった。
「私、高校を卒業したら、調理師専門学校に進学したい」
まっすぐな娘の言葉に、弥生は湯呑みを持つ手を止め、優しく目を細めた。
「私と同じ、食べ物の世界へ来るのかい?」
「うん」
葉那香はこくりと頷いた。
「私、ここでお店の手伝いをするのがすごく楽しい。でも、ただの『家業の手伝いの延長』じゃなくて、もっと専門的な知識と技術を身につけたいの」
(ただ美味しいものを作りたいだけじゃない……)
葉那香の脳裏に、幼い頃の記憶が鮮やかに蘇ってきた。
幼稚園の頃、両親が離婚し、日常から父親という存在が消えた時のこと。
たまの休日に、友達が父親と手を繋いで歩く姿を見ては、どうしようもない寂しさを抱えていた。そんな時、カウンターの隅で膝を抱えていた幼い葉那香に笑いかけてくれたのは、仕事帰りにやってくる泥臭い大人たちだった。
『おう葉那香、今日もいい子にお留守番か』と大きな手で頭を撫でてくれた隼人。
『ほら、辰おじちゃんからお菓子のお小遣いだ』と笑わせてくれた辰男。
そして、何より葉那香の心を温めてくれたのは、弥生が黙って差し出してくれる、湯気を立てる温かい手料理だった。そのぬくもりを口にするたび、胸にぽっかり空いた穴が、少しずつ満たされていくのを感じたのだ。
「私ね、お母さんの作るご飯と、このお店の温かさに育ててもらったと思ってる」
葉那香は、湯呑みの温もりを両手で包み込みながら語り続けた。
「だから私は、ただ美味しい料理を出したいんじゃなくて……昔の私みたいに、どこか寂しくて心が冷え切っちゃってる人が、『ここに帰ってきていいんだ』って思えるような場所を作りたいの。それが、私のやりたいこと」
誰かの代用品ではなく、自分自身の原体験から見つけ出した、確かな未来の形だった。
弥生は、大きく成長した娘の姿を眩しそうに見つめた。
かつて、「父親という存在を遠ざけてしまった」と申し訳なさを抱えていた弥生にとって、娘がこれほどまでに周囲の愛を受け取り、他人の痛みに寄り添える強い子に育ってくれたことは、何よりの救いだった。
「……そうかい」
弥生は目尻の笑いジワを深くして、ふわりと微笑んだ。
「あんたなら、きっと私よりずっといい女将さんになれるよ。専門学校、しっかり探してきなさい。学費の心配はいらないから」
「お母さん……ありがとう!」
葉那香は目に涙を浮かべながら、満面の笑みで出汁巻き卵を頬張った。
「んーっ!やっぱりお母さんの卵焼き、最高!」
「ふふっ。しっかり勉強して、その味を超えてみせな」
秋の夜風が、少しだけ開いた引き戸の隙間から吹き込み、店内の出汁の香りを優しく揺らした。
親友同士は、同じ夜、それぞれの原点と向き合いながら、確かな未来への第一歩を踏み出そうとしていた。




