第27話 未来の約束
数日後の放課後。県立しおみの海風高等学校の教室には、西日が長く伸びていた。
雅は教卓の前に立ち、進路希望調査票を担任の男性教師に提出した。第一志望の欄にはっきりと『大学・建築学科(空間・環境デザイン専攻)推薦入試希望』と書き込まれたその用紙を見て、担任は満足げに頷いた。
「やはり、建築の方へ進むんだな。八木澤はお母さんが有名な建築家だし、同じ道を選んだんだね」
担任は、表面的な憧れやスマートなキャリアの選択として雅の進路を捉え、感心したように声をかけた。
「ええ、まあ……」
「お母さんの事務所の仕事を手伝っているなら、推薦入試の面接やポートフォリオでも有利に働くはずだ。しっかり対策していこう」
隣で聞いていたクラスメイトの女子たちも、「雅ってお母さんみたいにスタイリッシュだもんね」「将来はデザイナーかあ、かっこいい!」と無邪気に囃し立てる。
周囲の好意的な反応に対し、雅は「ありがとう」と微笑んで応えたが、その胸の奥には微かなもどかしさが渦巻いていた。
(……全く違うんだけどな)
担任もクラスメイトも、雅が目指す空間デザインの奥底にある『本当の理由』には気づいていない。
しかし、それを言葉で説明しても、この教室にいる誰にも深くは伝わらないだろう。雅は微かな孤独を感じながら、教室を後にした。
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海へと突き出た高台の校舎。安全基準の金網越しに、汐見野の藍色の外海から吹き上げる強い潮風が通り抜ける屋上に、雅は一人で立っていた。
手すりに寄りかかり、開いたスケッチブックにシャープペンシルを走らせる。描いているのは、推薦入試のポートフォリオ用に構想している室内空間のパース図だ。
「雅ー!お待たせ!」
屋上の重い鉄扉が開き、放送部の活動を終えた葉那香が駆け込んできた。
ショートボブの髪を風に揺らしながら、葉那香は雅の隣にピタリと寄り添う。
「ごめん、放送長引いちゃって。……あっ、それ推薦用のデッサン?」
葉那香は、雅の手元にあるスケッチブックを覗き込んだ。
そこには、一見すると母・莉子の設計を思わせるような、無駄のないスタイリッシュな和モダンの室内が描かれていた。
しかし、葉那香はその絵を見た瞬間、ハッと息を呑んで目を丸くした。持ち前の鋭い観察眼が、その洗練された空間パースの奥に潜む『本質』を即座に言い当てたのだ。
「これ、一見すると莉子さんのスタイリッシュなデザインに見えるけど……光の入り方や床の余白、全部『隼人さんの畳』が主役になるように引かれてるよね」
葉那香の言葉に、雅のシャープペンシルを持つ手がピタリと止まった。
「……え?」
「ほら、ここの窓からの光、畳の目に一番綺麗に当たるように計算されてる。家具の配置も、真ん中の自然素材が一番引き立つように置かれてるし……雅、おじさんの打った畳を、この空間の真ん中に置きたいんでしょ」
葉那香は、先日雅が父と一緒に畳針を握り、指を血で滲ませながら知った「父の手仕事の凄み」が、この白黒の図面に確かな熱を伴って宿っていることを決して見逃さなかったのだ。
雅は驚きで言葉を失い、やがてスケッチブックを胸に抱きしめ、微かに肩を震わせた。
「……担任の先生には、『お母さんの事務所の仕事を手伝ってるなら推薦も有利だな』としか言われなかったのにさ」
雅の瞳から、先ほど教室で感じていた孤独感が嘘のように溶け落ちていく。
「やっぱり葉那香には、私の頭の中も心の中も全部お見通しなんだね」
自分の真意を誰よりも深く、正確に理解してくれている親友の真っ直ぐな眼差しに、雅は胸を強く打たれていた。
潮風が二人の間を吹き抜け、雅はふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「……そういう葉那香だって」
雅はスケッチブックを閉じ、海を見つめる葉那香の横顔を見つめ返した。
「葉那香は、ただお店を継ぎたいだけじゃないでしょ」
その言葉に、今度は葉那香が驚いたように振り返る。
葉那香が小料理屋「まき」を継ぐために調理師専門学校を選ぶ理由。周囲の人間はそれを「看板娘が家業の手伝いの延長で選んだ道」と見ているが、雅はそうではないことを深く理解していた。
「親父が病気になって、うちの家族がバラバラになりかけた時……葉那香がおむすびを持ってきてくれたり、弥生さんとうどんを出してくれたりしたよね」
雅の声は、潮騒の音に負けないくらい優しく、そして力強かった。
「葉那香だって、きっと口には出せない心細い夜もあったと思う。でも、弥生さんの優しいご飯や、下町のみんなの温もりが、それをずっと包み込んでくれていたんだよね」
痛いところも、弱いところも、すべてを受け止めるような雅の言葉。
「葉那香が作りたいのは、ただ美味しいものじゃなくて、心が冷え切った人が『ここに帰ってきていいんだ』って思える場所なんでしょ」
自分の抱えてきた孤独と、その先にある切実な祈りを雅に寸分違わず言い当てられ、葉那香の目からポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……っ、雅には敵わないよ」
葉那香は袖口で乱暴に涙を拭いながら、くしゃっとした笑顔を見せた。
「本当に、私の心を私以上に知ってるんだから」
夕陽が茜色に染まり始めた屋上で、二人は互いの顔を見つめ合い、どちらからともなく楽しげに笑い合った。
春、「己を知る真の友」として知己という言葉を使い始めた二人が、今、お互いの人生の根底にある傷や誇りを完全に分かち合っているからこそ描ける『未来の形』があった。
雅は再びスケッチブックを開き、先ほどの室内パースの余白に、シャープペンシルを滑らせ始めた。
描かれていくのは、汐見野の古い坂道に溶け込む、小さな店舗の外観パースだった。木の温もりを感じさせる引き戸に、控えめで上品な暖簾。
「ねえ、葉那香」
雅はスケッチを描き足しながら、隣に立つ親友に語りかけた。
「もし私が一人前になって、自然素材の温かい建物を建てられるようになったら……葉那香、私の建てた店で料理を出してよ」
それは、ただの夢物語ではない。互いの本質を認め合ったからこそ言える、魂の約束だった。
葉那香は目を輝かせ、力強く頷いた。
「もちろん!雅が作る空間なら、どんなに冷たい海風に吹かれて傷ついた人でも、足を踏み入れた瞬間にホッとできる場所に造り上げてくれるはずだから」
葉那香は、雅の描くスケッチの暖簾の部分を指差した。
「そこで私が、汐見野で一番温まるご飯を出す」
「約束だよ。……いつか雅の建てた店で、私が作った料理を出す、汐見野で最高のお店を開こう」
雅は、葉那香が指差したスケッチの看板部分に、小さな文字を書き入れた。
『小料理ちき』
その二文字を見た瞬間、葉那香の顔に満面の笑みが広がった。
水平線に沈みゆく夕陽が、未来の設計図と、固く手を握り合う二人の少女を黄金色に照らし出していた。冷たい海風の中で交わされた『知己の誓い』は、彼女たちのこれからの人生を導く、決して消えない道標となったのであった。




