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知己の父の乳がガン  作者: 団田図


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第28話 合格の知らせ

 十一月中旬。秋が深まり、汐見野《しおみの》の街は乳白色の海霧《うみぎり》に包まれる日が多くなっていた。


 昼休みの県立しおみの海風《うみかぜ》高等学校。

 教室のストーブが微かに音を立てる中、葉那香《はなか》は自分のスマートフォンを握りしめ、小走りで雅の席へと駆け寄ってきた。

「雅!来た、来たよ!」

 息を弾ませる葉那香の顔は、喜びで紅潮していた。

「来たって……もしかして」

「うん!調理師専門学校のAO入試、合格通知!」

 スマートフォンの画面に表示された『合格』の二文字を見て、雅は自分のことのようにパッと表情を輝かせた。

「葉那香、おめでとう!やったね!」

「えへへ、ありがとう!これで、雅の建てたお店で料理を出す準備が、一つ進んだよ」

 葉那香がVサインを作ると、雅も嬉しそうに頷いた。


「次は雅の番だね。推薦入試、今週末でしょ?」

「うん。面接と、ポートフォリオを使ったプレゼンがあるの」

 葉那香は制服のポケットをごそごそと探り、小さな布袋を取り出した。それは、不器用な縫い目で仕上げられた手作りのお守りだった。

「はい、これ。雅の合格祈願。中に汐見野の神社で拾った松ぼっくり種と翼、ひとかけら入れといたの」

「松ぼっくりの……翼?」

 雅が不思議そうに尋ねると、葉那香は真っ直ぐな瞳で力強く頷いた。

「うん。汐見野の松ってね、どんな強い海風が吹いても折れないし、その風に乗って種を遠くまで飛ばすんだよ。今の雅には向かい風ばっかり吹いてるかもしれないけど、この翼があれば、全部飛び立つための力に変えられるから」

「葉那香……。ありがとう。すごく心強いよ」

 雅はお守りを両手で大切に包み込み、自分のスクールバッグの内側にしっかりと結びつけた。


 葉那香は、雅の机の上に広げられていたポートフォリオのファイルに目を落とした。

 そこには、雅が描いた洗練されたモダンな空間パースの隣に、いくつかの写真と現物がレイアウトされていた。

「あっ、これ……おじさんが作ってたやつ?」

「うん」

 雅がポートフォリオに組み込んでいたのは、畳縁《たたみべり》を丁寧に縫い合わせて作られたモダンなコースターや、い草の端切れを美しく編み込んだ小さな花瓶敷きだった。


「最近ね、父さん、重い畳を持ち上げられないから、作業場で座ったままこういう小物を作ってるの。色合いとか手触りがすごく良くて、私がデザインする空間のアクセントになるなって思って」

 雅は、その畳縁のコースターを愛おしそうに指先でなぞった。

「私、お母さんの合理的なデザインだけじゃなくて、父さんの手仕事の温もりも大事にしたいから。父さんの作ってくれたこの小物を武器にして、面接官にちゃんとプレゼンしてくる」

 父の泥臭い精神を継ぎ、確かな未来を切り拓こうとする雅の瞳は、一点の曇りもなく輝いていた。

「絶対大丈夫だよ。雅とおじさんの合作なんだから、面接官もイチコロだって!」

 二人は互いの明るい未来を信じ、楽しげに笑い合った。


 +++


 同じ日の早朝。八木澤畳店の作業場裏にある、隼人の自室。

 午前四時半。窓の外はまだ真っ暗で、冷たい海風が松の枝を揺らしている。


「……っ、ぐぅ……」

 万年床の中で、隼人は歯を食いしばり、呻き声を殺していた。

 朝一番、目が覚めた瞬間に襲ってくる背骨と腰の強張りが、このところ尋常ではない。まるで太い釘を骨の髄まで打ち込まれたような、息の詰まる激痛だった。

(ただの、寒さの神経痛だ……。手術の後遺症が長引いてるだけだ……)

 隼人は、必死に自分へと言い聞かせる。

 少しでも身体を動かせば、電気が走るような痛みが背中から肺にかけて突き抜ける。それでも彼は、ゆっくりと、亀のように身をよじって布団から這い出した。


 壁に手を突き、震える足に力を込める。

 立ち上がるだけで、十分近い時間がかかっていた。

 妻の莉子や娘の雅が起きてくる前に、何としてでも起き上がらなければならない。自分がこれほどまでに弱り果てている惨めな姿を、家族にだけは絶対に見せたくなかった。

「ふぅ……、ふぅ……」

 冷や汗を額に滲ませながら、隼人は壁を伝って作業場へと向かった。


 日中。い草の香りが少し薄れた作業場に、黒電話のベルが鳴り響いた。

「……はい、八木澤畳店です」

『おう、大将か。そろそろ年末も近いし、うちの座敷の畳、新床で頼めねえかと思ってな』

 古くからの贔屓客からの、ありがたい依頼だった。

 隼人は、受話器を握る手にギリッと力を込めた。胸の奥が、痛みに負けないほど激しく軋む。

「申し訳ねえ、旦那。……実は、持病の腰痛が悪化しちまって。年内いっぱいは、休業させてもらってるんです」

『なんだ、そうかい。そりゃお大事にしろよ。あんたの畳じゃないと落ち着かないから、治るまで待ってるぜ』

「……ありがてえお言葉です。すいやせん」


 ガチャリと受話器を置き、隼人は深く、重いため息を吐いた。

 九月に雅と一緒に納品した畳を最後に、分厚い畳床を担ぐような本格的な仕事は、事実上完全に停止している。

(腰痛だと……。俺は、いつまでこんな嘘をつき続けなきゃならねえんだ)

 客を騙し、仕事を断り続ける。それは、職人としての誇りをひどく抉る行為だった。


 店を完全に閉めてしまえば、自分の存在価値が消えてしまうような恐怖があり、隼人は毎日無理をして作業場に立っていた。

 重い畳は打てなくても、作業台の前に座り、畳縁を縫い合わせたコースターや、端切れを使った小物作りを行っている。雅が「面接で使う」と喜んで持っていってくれた小物だ。

 そして今、隼人は痛む体に鞭を打ち、一人こっそりと『別のもの』を編み上げていた。細く裂いたい草を精緻に組み合わせ、畳のような四角ではない、何か丸みを帯びた小さな立体を作っている。

 しかし、い草を立体的で丸く編み込む作業は、分厚い畳を縫うのとは違う繊細な指先の力と集中力を要し、今の身体にはひどく堪えた。


「ッ、ゴホッ!ゲホッ、ゴホッ!」

 無理な姿勢で編み込みを続けようとした瞬間、背骨に激痛が走り、舞い上がったい草の微粒子を少し吸い込んだだけで、肺の奥から絞り出されるような激しい咳込みが止まらなくなる。

 胸を押さえ、作業台に突っ伏して咳き込む。ほんの数分、座って作業をするだけでも限界だった。


「……っはぁ、はぁ……」

 咳が収まり、荒い息を吐きながら、隼人は自分の青白い手のひらを見つめた。

 かつてあんなに大きく、力強かった手が、今はひどく痩せ細り、微かに震えている。

(違う……。これは、ただの後遺症なんかじゃねえ)

 無理矢理に信じ込もうとしていた防衛機制の否認が、残酷な現実の前に音を立てて崩れ去っていく。

 かつて小料理屋で「死ぬのが怖い」と吐露した時とは比べ物にならない、決定的な『死の足音』が、すぐ背後に迫っている。

 職人としての本能が、自身の命の灯火が容赦なく消えかかっていることを、冷たく悟らせていた。

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