第29話 余命宣告
その日の深夜。八木澤家に併設された莉子の仕事部屋。
デスクの上のスタンドライトだけが、図面に向かう莉子の青白い横顔を照らし出していた。
カリカリ、カリカリと、鉛筆を走らせる音が異常なほどの早さで響いている。
普段の莉子であれば、CADソフトを使って無駄のない合理的な線を引くはずだった。しかし今の彼女は、焦燥感に急かされるように、プリントアウトした『隼人専用・特注和室』の図面に直接書き込みを重ねていた。
「ゴホッ!ゲホッ、ゲホッ!」
壁を隔てた隼人の自室から、肺の底を掻きむしるような激しい咳き込みが聞こえてくる。その音が響くたび、莉子の鉛筆の芯がギリッと嫌な音を立てて折れた。
(……急がなきゃ)
莉子は震える手で新しい鉛筆を握り直し、定規を当てた。
最近の隼人の異常な痛がり方、そしてあのひどい咳。合理的な思考を持つ莉子は、それが単なる「手術の後遺症」や「風邪」ではないことを、とうに薄々察していた。それでも、最悪の可能性から目を背けるように、図面を完成させることだけに没頭していた。
「早く、この部屋を完成させないと……あの人が、この家に居続けられるように。あの人の大切なものを守るために」
莉子の声は、誰に聞かせるわけでもない悲痛な祈りだった。感情を言葉にするのが苦手な彼女は、夫の命が削られていく恐怖を、ただ図面を引くという行為で必死に塗りつぶそうとしていた。
+++
翌朝。
秋晴れの空の下、雅は真新しいポートフォリオのファイルをスクールバッグにしまい、玄関で靴を履いていた。
今日は、いよいよ大学の推薦入試の面接日だ。
「父さん、行ってくるね!」
縁側に座って日向ぼっこをしている隼人に向かって、雅は希望に満ちた明るい声で手を振った。
「ああ。……お前の作った自信作、しっかり見せつけてこい」
隼人は、痛む背筋を必死に伸ばし、努めて威勢のいい声で送り出した。
「うん!父さんのコースターもばっちりプレゼンしてくるから!」
雅の背中が、風待坂の向こうへと小さくなって消えていく。その足取りは軽く、春からの新しい生活という光り輝く未来に向かって、真っ直ぐに進んでいた。
雅の姿が完全に見えなくなると、隼人の背中からフッと力が抜け、そのまま縁側の柱に力なく寄りかかった。
膝の上には、趣味である古代中国の歴史書『三国志』が開かれている。五丈原で秋風に吹かれ、志半ばで病に倒れゆく諸葛亮の最期を描いたページだ。
しかし、隼人の目は活字を追う集中力を完全に失っていた。文字が滲み、ページをめくるために腕を持ち上げる姿勢を保つことすら、今の彼には耐え難い苦痛だった。
ふと顔を上げると、汐見野の深い藍色の海の方角から、乳白色の「海霧」が音もなく押し寄せてきているのが見えた。
冷たく湿った霧は、テトラポッドを飲み込み、坂道を這い上がり、街全体を白いベールで覆い尽くしていく。
「……」
隼人は、その海霧が自分の足元まで迫ってくるのを、ただぼんやりと見つめていた。
(手術の後遺症だ。寒さで神経痛が出ているだけだ……)
頭の中で何度も繰り返してきた【防衛機制の否認】の呪文が、肺の奥からせり上がってくる息苦しさと、骨を軋ませる激痛の前に、ガラガラと音を立てて崩れ去っていく。
かつて、小料理屋「まき」で莉子や雅の前で「死ぬのが怖い」と吐露したあの夜。あの時はまだ、病気と闘って生き延びるという希望があった。
しかし今は違う。
冷たく決定的な「死の足音」が、もうすぐ背後の、首筋にまで迫っている。隼人は、自身の命の境界線がこの白い海霧のように曖昧に溶け出し、完全に消え去ろうとしていることを、職人の研ぎ澄まされた本能で悟ってしまったのだ。
「……っ」
隼人は、膝の上の歴史書を強く握りしめ、音を立てずにポロリと涙をこぼした。
娘は、春に向かって羽ばたこうとしている。だが自分は、その春の光を見届けることができない。その残酷な確信が、彼からすべての希望を奪い去っていった。
+++
数日後。総合病院の乳腺外科・診察室。
定期検診に訪れた隼人の隣には、仕事を抜け出してきた妻の莉子が付き添って座っていた。
主治医の神保のデスクのモニターには、先ほど撮影されたばかりの造影CT画像と、骨シンチグラフィ検査の画像が並んで映し出されている。
いつもは温和で、患者に寄り添う眼差しを向けてくれる神保の表情は、今日は岩のように硬く、深く沈痛な色を帯びていた。
「……神保先生。夫の咳と、腰の痛みは……」
たまらず口を開いた莉子の声は、微かに震えていた。
神保はゆっくりとモニターから視線を外し、二人を真っ直ぐに見据えた。そして、残酷な事実を隠すことなく、非情な宣告を下した。
「左胸の乳がんは取り切れましたが……残念ながら、がん細胞が血液に乗って全身に回っていました。骨、および肺への多発遠隔転移です」
その言葉が診察室に落ちた瞬間、莉子の顔から完全に血の気が引いた。
「転移……?嘘でしょ。手術のあとも、あんなに辛い抗がん剤や予防治療を休まず続けていたのに……」
「ええ。しかし、非常に稀なケースですが、がんの悪性度が高く、術後の治療をすり抜けて進行するスピードが私たちの想定を遥かに超えていたのです」
神保は悔しそうに唇を噛み締め、さらに重い口を開いた。
「肺に広がった腫瘍が、呼吸を圧迫しています。骨への転移が、激しい痛みを引き起こしています。現在の病状の進行スピードから考えて……」
神保は一度言葉を切り、深く頭を下げた。
「もってあと数ヶ月……。春を迎えられるかどうか、という状態です」
「っ……!」
莉子は言葉を失い、両手で口元を覆った。
春を迎えられない。それはつまり、数ヶ月後の雅の卒業式も、大学の入学式も、隼人は見届けることができないという明確な『余命宣告』だった。
莉子が徹夜で引き続けていた『隼人専用・特注和室』の図面は、たった今、永遠に実現することのない無用の長物へと成り果ててしまったのだ。
「……そうですか」
静かな声が響いた。
驚愕と絶望に打ち震える妻の横で、隼人だけは奇妙なほど落ち着いていた。
彼は、縁側で海霧を見たあの日、すでに自分の死を本能で受け入れていたのだ。
「隼人さん……申し訳ありません。もっと早く、進行の兆候を……」
神保が医療者としての無力感に苛まれながら謝罪すると、隼人はゆっくりと首を横に振った。
「先生が謝ることじゃねえですよ。……俺の寿命が、そこまでだったってだけだ」
隼人はモニターの白黒の画像から目を逸らし、診察室の窓の外へと視線を向けた。
そこには、汐見野のどんよりとした灰色の海が広がっている。
(雅……)
隼人の脳裏に、数日前に希望に満ちた笑顔で面接へと向かっていった娘の顔が浮かんだ。
雅が掴み取ろうとしている輝かしい未来と、自分が落ちていく暗く冷たい死の淵。そのどうしようもない残酷なすれ違いを胸に抱きながら、隼人はただ静かに、自分の命の残り時間を数えるように海を見つめ続けていた。




