第30話 託されたお守り
十二月上旬。汐見野市を包み込んでいた海霧は冷たい冬の風に吹き払われ、空には重く灰色の雲が垂れ込めていた。
八木澤家のダイニングは、しんと静まり返っていた。
主である隼人の姿はない。激しい疼痛の緩和と全身管理のため、彼は総合病院の緩和ケア病棟へと入院していた。
雅は、ダイニングテーブルの上に置かれた一枚の紙切れを、ただ呆然と見つめていた。
それは、第一志望だった大学の建築学科からの『合格通知』だった。
(受かった……。でも……)
喜びは、全く湧いてこなかった。
雅はゆっくりと顔を上げ、室内の隅へ視線を向けた。そこには、隼人が最後まで仕事場で編んでいた、い草の束がビニールで密閉されて置かれている。
家の中から、雅があれほど嫌っていた青臭い「い草の香り」が完全に消え去っていた。
冷え切った無臭の空間に身を置くことで、雅はようやく気付かされていた。
(あの匂いこそが、お父さんが生きて、この家で息をしていた証だったんだ……)
二度とあの威勢のいい声が響かないかもしれない。い草の匂いが満ちることはないかもしれない。
その残酷な現実が、雅の胸を鋭く抉った。
「……雅」
背後から、静かな声がかけられた。
振り返ると、仕事用のノートパソコンを開いていた母の莉子が、眼鏡の奥から心配そうに娘を見つめていた。
雅は、手元の合格通知を強く握りしめた。堪えきれなくなった感情が、涙となってボロボロとこぼれ落ちる。
「……合格したのに……」
雅は顔を歪め、子供のように泣きじゃくった。
「春になって、私が大学生になっても……ここにお父さんがいないなら、意味がないよ……っ!」
その悲痛な叫びが、冷え切った家屋に響き渡る。
これまで合理的な正論ばかりを口にしていた莉子だが、今は違った。彼女は無言でパソコンの画面を閉じると、立ち上がり、取り乱す雅の隣に歩み寄った。
そして、その細い肩を静かに、けれど力強く抱き寄せた。
「意味がないなんて、言わないで」
莉子の声は、微かに震えていた。雅が顔を上げると、決して娘の前では弱さを見せまいとしていた母の目元に、涙が滲んでいるのが見えた。
「あの人が一番望んでいたのは、あなたが自分の手で未来を掴むことよ」
「お母さん……」
莉子は雅の背中を優しく撫でた。不器用な母娘は、互いの体温で深い喪失の恐怖を埋め合わせるように、身を寄せ合った。
やがて、少し落ち着きを取り戻した雅のために、莉子は「温かいお茶でも淹れるわね」と立ち上がろうとした。
「あっ……」
その瞬間、莉子の身体がグラリと傾き、めまいでふらついた。
「お母さん!?」
雅が慌てて支えると、莉子は「大丈夫よ、少し立ちくらみがしただけ」と気丈に笑ってみせた。
雅は、母の顔に刻まれた深い疲労の影にはっきりと気付いた。
莉子は明日、自身の設計事務所にとって絶対に落とせない大きなプレゼンを控えていた。莫大な緩和ケア病棟の個室費用と、雅の進学費用を稼ぎ出すため、彼女は仕事をおろそかにするわけにはいかなかったのだ。
(お母さんも……戦ってるんだ)
雅のこと、家計のこと、仕事のこと、そして誰よりも夫の死という恐怖と、母は一人で必死に戦っている。
雅は、自分の弱音を恥じ、ギュッと唇を噛み締めた。
+++
翌朝。
ダイニングテーブルには、出社前のスーツ姿の莉子と、制服に着替えた雅が向かい合って座っていた。
「お母さん。昨日は取り乱してごめんなさい」
雅が真っ直ぐに母を見ると、莉子は温かく微笑んで首を振った。
「ねえ、お母さん。私ね、葉那香がくれたこのお守りのおかげで、合格できたんだと思う」
雅は、スクールバッグから不器用な縫い目で仕上げられた布製のお守りを取り出した。
そして、そのお守りの紐を解き、中からキラリと光る小さな欠片を取り出して手のひらに乗せた。
「これ、見て」
「それは……硝子の欠片?」
雅の脳裏に、数日前の情景が鮮やかに蘇った。
大学受験のポートフォリオ制作に行き詰まり、冷たい海風が吹きすさぶ白鷺浜を一人で気晴らしに歩いた日のことだ。
打ち寄せる荒波とテトラポッドの隙間に、空間デザインの素材サンプルとして使えるものはないかと探していた時、雅は汐見野の特産品である「藍硝子」のシーグラスを見つけた。
元々は鋭く尖っていたはずの硝子の欠片が、長い間、荒波に揉まれ、砂に洗われることで、角が完全に取れて丸く優しい形に変化していたのだ。深い海の底のような青緑色が、冬の薄日に透けて美しく輝いていた。
「……これ、白鷺浜で拾ったシーグラスなの。お守りの中に、追加で入れておいたんだ」
雅は、手のひらの上の藍硝子を莉子に見せた。
「これを、お母さんに持っていってほしくて」
「私に?」
雅は立ち上がり、莉子の手を取って、その丸みを帯びたシーグラスごと、お守りを握らせた。
「お母さんの張り詰めたトゲトゲした気持ちや不安が、波に洗われて少しでも丸くなりますように」
雅の言葉は、かつて両親に反発していた冷たい娘のそれではなく、家族を心から案じる温かさに満ちていた。
「今日のプレゼン、きっと上手くいくよ。汐見野の海の光が、お母さんのプレゼンを照らしてくれますように」
娘からの真っ直ぐな願いを受け取った莉子は、手の中のお守りをギュッと握りしめた。
合理主義で冷徹だった彼女の目元が、また少しだけ潤む。
「……ありがとう、雅。お母さん、頑張ってくるわ」
莉子はお守りをスーツの胸ポケットに大切にしまい込むと、力強く立ち上がった。その背中には、愛する家族の居場所を守り抜くという、揺るぎない覚悟が宿っていた。




