↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
知己の父の乳がガン  作者: 団田図


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
31/37

第31話 緩和ケア病棟

 同日の昼休み。

 県立しおみの海風高等学校の屋上には、凍てつくような冬の海風が吹き抜けていた。

 雅は、冷たい金網に寄りかかりながら、隣に立つ親友の葉那香《はなか》に向かってポツリと告げた。

「大学、受かったよ」

「本当!?雅、おめでとう!」

 葉那香は自分のことのように顔を輝かせたが、雅の表情は暗く沈んだままだった。

「……でも、お父さん、もう長くないって。春までもたないかもしれない」

 雅が絞り出すように打ち明けた言葉に、葉那香の笑顔が凍りついた。

「え……」

「緩和ケアの病棟に移ったの。だから、私が大学生になる頃には……もう」

 ポロリと、雅の目から冷たい涙がこぼれ落ちる。

 葉那香は、親友に突きつけられたあまりにも残酷な現実を前に、かける言葉を見つけられず、ただギュッと唇をかみしめた。そして、凍える雅の手を両手で強く握りしめることしかできなかった。


 +++


 放課後。

 湊元町《みなともとまち》の路地裏にある小料理屋「まき」。

 仕込み作業の最中、葉那香は厨房で大根の皮を剥いている母の弥生に、泣き出しそうな声で今日雅から聞いた事実を打ち明けた。

「……春まで、もたないかもしれないって。雅、お昼休みにすごく泣いてた」

 弥生の包丁を持つ手が、ピタリと止まった。

「……そうかい。隼人さん……」

 沈痛な面持ちで弥生が深く息を吐いたその時、勝手口の扉の向こうから、ガタッと物音がした。

「……おい、嘘だろ」

 店の修繕の下見に来ていた大工の原口辰男だった。彼は、手に持っていた道具箱を落とし、顔を青ざめさせて立ち尽くしていた。

 その背後には、お茶を飲みに立ち寄っていた園田マダムもおり、口元をハンカチで覆って絶句している。

「春までもたないなんて……。あんないい腕した男が、どうして……」

 辰男の声は震えていた。それは到底受け入れがたい現実だった。

「私たちに、何かできることはないのかしら……」

 園田マダムが悲痛な声で呟く。

 下町の人々は、深い無力感と焦燥感に包まれていた。誰よりも隼人の腕を愛し、その帰りを待ち望んでいた彼らの心には、冷たい隙間風が吹いていた。


 +++


 同じ頃、県内有数の大きな会議室の控え室。

 莉子は、洗面台の鏡の前で、震える自分の両手を強く握りしめていた。

 数十分後に迫った、大型商業施設のリニューアルを賭けたコンペティション。これを勝ち取れば、夫の緩和ケアの莫大な費用も、家の改修工事も、娘の進学費用も賄うことができ、余裕ができる。

 プレッシャーが、目に見えない巨大な岩となって莉子の背中にのしかかっていた。

(……負けられない。私が、あの人の居場所を、家族を守るのよ)

 莉子は深呼吸をし、スーツの胸ポケットにそっと手を当てた。

 そこには、今朝雅から手渡された、藍硝子《あいびいどろ》のシーグラスが入ったお守りがある。布越しの丸みを帯びた硝子と、松ぼっくりの翼の感触が、張り詰めたトゲトゲしい心を優しく解きほぐしていくようだった。

 莉子は鏡を見据え、完璧な「建築家」の顔を作った。そして、迷いのない足取りで控え室の扉を開け、決戦の場へと向かっていった。


 +++


 夕方。総合病院の緩和ケア病棟。

 静かな個室のベッドの上で、隼人は酸素マスクをつけ、痩せ細った体で横たわっていた。その手には趣味である中国の古書が握られていたが、文字を追う気力もなく、寂しげに見つめているだけだった。彼の無骨で分厚かった手は信じられないほど細くなり、ページをめくることすら難しくなっている。


 ガラリと病室の扉が開き、見舞いに訪れた雅と莉子が姿を現した。

「父さん、調子はどう?」

 雅が努めて明るい声でベッドサイドに歩み寄る。

 隼人は、ゆっくりと顔を向け、微かに目を細めた。

「ああ……雅か。莉子も……」

 隼人の声は掠れ、ひどく弱々しかった。

 彼は窓の外の、夕闇が迫る灰色の空を寂しげに見つめながら、酸素マスク越しにポツリと呟いた。

「……雅の……高校の卒業式、見たかったなぁ」

 それは、死期を悟った男の、最後の、そして最も切実な心残りだった。

 その言葉を聞いた瞬間、雅は泣き崩れそうになるのを必死に堪え、俯いた。


 だが、莉子は違った。

 彼女はベッドの脇に立つと、スーツの胸ポケットから、雅が渡したあの手作りのお守りを取り出した。そして、カバンの中からさらに「あるもの」を取り出し、その場でお守りの紐を解いて中へと滑り込ませた。

 それは、退院祝いの夜に小料理屋「まき」で開けた、隼人との思い出のヴィンテージワインのコルクだった。莉子はあの夜から、夫との約束の証であるそのコルクを、ずっとお守りのように持ち歩いていたのだ。


「……あなた。私ね、コンペを勝ち取ってきたわ」

 莉子は、誇り高く、力強い声で告げた。

「雅のお守りのおかげで、勝つことが出来たの。このお守り、本当に凄い力があるの。だから、今度はこのワインのコルクを足してあなたに渡すわね」

 莉子は、膨らみを増したお守りを、隼人の痩せた手にしっかりと握らせた。

「……病気を全部治せなんて、無茶なことは言わない。でもね」

 莉子は、夫の目を真っ直ぐに見据えた。


「雅の卒業式だけは、絶対に二人で見届けるのよ。この子の門出をこの目で見て、もう一度二人で『おめでとう』って祝杯をあげるの。その日まで、絶対に諦めないで」


 合理主義で冷徹だった妻の、決して諦めないという執念と深い愛情。

 その言葉と、手に握らされたお守りの重みに、隼人の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。

「……ああ。そうだな……」

 隼人は酸素マスク越しに、微かに、けれど確かに頷いた。

 死の淵に立たされ、すべてを諦めかけていた男の心に、「雅の卒業式を見る」という強烈な望みの火が灯った瞬間だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。