第32話 やれることの提案
一月下旬。県立しおみの海風高等学校の体育館には、ストーブの灯油の匂いと、三年生たちの少し浮き足立った歌声が響いていた。
『仰げば尊し、我が師の恩——』
三月に控えた卒業式に向けた、合唱の練習風景だ。
周囲の生徒たちは、目前に迫った春の門出と新しい生活への期待に胸を膨らませ、どこか明るい空気に包まれている。しかし、列の後方に立つ雅だけは、その輪から完全に切り離されたような強烈な孤独感の中にいた。
(……三月なんて、来なければいいのに)
雅はギュッと制服のスカートを握りしめ、俯いた。
父である隼人の病状は、年が明けてから悪化の一途をたどり、三月の卒業式までは持たない可能性が高まっていた。
周りのみんなが当たり前のように迎える春を、自分のお父さんは見ることができない。その残酷なタイムリミットが雅の心を締め付け、息をすることすら苦しくさせていた。
「……ごめんなさい、ちょっと気分が悪くて」
雅は隣の生徒に短く告げると、耐えきれずに体育館から逃げ出した。
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放課後、冷たい冬の海風が吹きすさぶ、汐見野の海沿い。
雅は一人、鉛色の外海を見つめて立ち尽くしていた。
波に削られた黒い奇岩に白波が打ち付け、激しい飛沫を上げている。頬を刺すような風の冷たさも、今の雅には何も感じられなかった。
「……合格したって、お父さんが卒業式を見られないなら……」
ポツリと、風に溶けるような声が漏れた。
「私、何のために頑張ってきたんだろう……」
ようやく家族の絆を取り戻し、自分なりの未来を見つけて、大学への合格を勝ち取った。それなのに、一番その姿を見せたかった父が、その日にいないのだとしたら。
絶望の波が雅を飲み込み、視界が涙で滲んでいく。
「雅!」
その時、背後から荒い息遣いと共に名前を呼ばれた。
振り返ると、雅を追いかけて走ってきた葉那香が、肩で息をしながら立っていた。
「葉那香……」
「こんな冷えるところにいたら、風邪引いちゃうよ」
葉那香は足早に雅に歩み寄ると、手袋もせずに冷え切っていた雅の両手を、自分の両手で無理やりギュッと握りしめた。親友の手の温もりが、凍えていた雅の指先にじんわりと伝わってくる。
「……もう、ダメかもしれない」
雅は堪えきれずに嗚咽を漏らした。
「お父さん、日に日に弱ってて……三月までなんて、絶対に無理だよ……」
葉那香は、泣き崩れる雅の手をさらに強く握り返した。その瞳には、かつて雅の家の襖を蹴破った時と同じ、真っ直ぐで強い光が宿っていた。
「雅、泣くのはまだ早いよ」
「え……?」
「おじさんはまだ強く生きてるじゃない!私たちに今できること、しよ!」
葉那香は力強く宣言すると、呆然とする雅の腕を引っ張った。
「まずは。お母さんの温かい豚汁食べて、作戦会議よ!」
「ちょ、ちょっと葉那香……」
反論する隙も与えず、葉那香は強引に雅の手を引いて、海沿いの急な坂道を足早に下り出した。その頼もしい背中に引っ張られ、雅の心にへばりついていた絶望の泥が、少しだけ振り落とされたような気がした。
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湊元町の路地裏にある、小料理屋「まき」。
開店前の静かな店内で、雅は葉那香の母・弥生が作ってくれた、湯気を立てる具沢山の豚汁を口に運んでいた。
根菜の甘みと豚肉のコクが溶け出した温かい汁が、冷え切った身体の芯をじんわりと温めてくれる。カウンターの向こうでは、弥生が心配そうに雅を見守り、隣の席には昼間から顔を出していた大工の辰男と、常連の園田マダムが座っていた。
「……少し、落ち着いた?」
葉那香が温かいお茶を差し出しながら覗き込むと、雅は小さく頷いた。
「うん。ありがとう、葉那香。弥生さんも、ごちそうさまです」
「いいんだよ。雅ちゃん、いっぱい食べな」
落ち込む雅を見かねた葉那香は、パンッと両手を叩いた。
「よし!それじゃあ、八木澤のおじさんのための作戦会議を始めます!」
葉那香は店の奥からメモ帳とペンを持ってくると、カウンターの上に広げ、全員を見渡して突飛な提案を口にした。
「三月の卒業式まで待てないなら……病室でフライングの卒業式をやるなんてどう!?」
その言葉に、弥生や辰男たち大人たちは一斉に目を丸くした。
「フ、フライングの卒業式……?」
雅が驚いて聞き返すと、葉那香は真剣な顔で頷いた。
「うん。おじさんが一番見たいのは、雅の卒業式でしょ?だったら、私たちが病院に卒業式を持っていけばいいんだよ。雅が制服を着て、卒業証書をもらう姿を見せてあげるの」
「でも……そんなこと、病院が許してくれるわけないよ。大体、式をやるって言っても、場所もないし……」
雅が不安げに視線を落とした瞬間、隣に座っていた辰男が、ドンッとジョッキをカウンターに叩きつけた。
「おいおい、雅ちゃん。俺を誰だと思ってんだ」
辰男はニヤリと豪快な笑みを浮かべ、腕まくりをした。
「俺にステージ設置を任せろ!」
辰男は以前、この店で隼人の病気を心無い言葉で笑い話にし、雅から激しく怒鳴りつけられた過去があった。その時の罪滅ぼしをするかのように、彼は誰よりも熱を込めて衝立や木枠の手配を買って出たのだ。
「ステージができても、肝心の『卒業証書』と『校長先生』がいないと、ただのお遊戯会になっちゃうわね」
口元に手を当てて話を聞いていた園田マダムが、ふふっと上品に微笑んだ。
「ねえ、雅ちゃん。今まで隠してたってわけじゃないけど実はうちの夫、海風高校の校長なのよ」
「「えっーーー!?」」
雅と葉那香が同時に驚きの声を上げた。園田マダムが校長夫人であることは、下町の常連客の間でもあまり知られていない事実だったのだ。
「あの人、頭は固いけど、生徒思いのいい先生だから。私が校長を直接引っ張り出す段取りを取り付けてあげるわ」
マダムは優雅にウインクをして、スマートフォンの連絡先を開き始めた。
大工によるステージの設営。校長夫人による、本物の校長のキャスティング。
不可能だと思われていた無茶な計画が、汐見野の大人たちの人情によって、一気に現実味を帯びていく。
「みんな……」
雅の瞳から、再び涙が溢れ出した。しかしそれは、海沿いで流した絶望の涙とは違う。下町の人々の底抜けの温かさに触れた、感謝と希望の涙だった。
「ほらね、雅。泣くのはまだ早いって言ったでしょ」
葉那香が隣で得意げに笑う。
「うん……!私、絶対に成功させる。お父さんに、卒業式を見てもらう!」
冷たい海風に吹き飛ばされそうになっていた雅の願いは、親友と汐見野の人々の強い引力によって、力強く結び直されようとしていた。




