第33話 舞台設計
総合病院の緩和ケア病棟、ナースステーション前。
雅と葉那香が持ち込んだ「病室での卒業式」という前代未聞の計画に、数人の看護師たちは険しい顔で首を横に振っていた。
「病室に大工を入れて式典をやる?おまけに畳のゴザを敷くですって?」
ベテランの看護師長が、信じられないというように声を荒げた。
「ここは緩和ケア病棟ですよ。患者さんの感染管理はどうするの?式典の最中に、お父様の体調が急変したら誰が責任を取るんですか」
正論だった。医療現場のルールからすれば、彼女たちの難色は当然のものだ。雅は言い返す言葉を見つけられず、ギュッと拳を握りしめて俯いた。
「——何か揉め事ですか」
その時、ナースステーションの奥から、タイトなまとめ髪にメタルフレームの眼鏡をかけた女性医師が現れた。隼人の主治医である神保だ。
「神保先生……!」
雅と葉那香は、すがるような目で神保医師を見つめた。
神保医師は看護師長から事の次第を聞き終わると、静かに腕を組んだ。彼女の表情は医療者としての冷静さを保っており、その沈黙は雅たちにとって永遠のように長く感じられた。
たまらず、葉那香が半歩前に出て、真っ直ぐに訴えかけた。
「先生!おじさんが一番望んでいたのは、雅の卒業式を見ることなんです。それが、今のおじさんの生きる力になります!」
その言葉に勇気をもらい、雅も顔を上げ、涙で滲む目で神保医師を真っ直ぐに見据えた。
「先生……父は、畳職人でした」
かつて、「臭い」「ガサガサの手がみっともない」と嫌悪し、避けていた父の仕事。しかし今の雅の言葉には、確かな誇りが宿っていた。
「重い畳はもう打てなくなってしまったけど……最後にもう一度、い草の匂いがする場所で……私の門出を見てほしいんです。お願いします、先生……!」
雅の悲痛な、しかし力強い叫びが、静かな廊下に響き渡った。
神保医師は、雅の目を見つめ返した。これまで、男性乳がんという特殊な病に苦しみ、羞恥心と絶望に苛まれながらも、必死に病魔と闘ってきた隼人の姿を一番近くで見てきたのは彼女だった。そして、そんな不器用な職人を支えるため、バラバラだった家族がどれほど強く結び直されてきたかも知っている。
神保医師は、手に持っていたカルテをパタンと閉じた。
「……医療は、命を長らえさせるためだけに存在するわけではありません」
静かな、しかし確固たる意志を持った声だった。
「患者さんの人生と尊厳を守るのも、私たち医療従事者の大切な役目です」
看護師長が「ですが先生……!」と口を挟みかけたが、神保医師はそれを片手で制した。
「私が、全責任を持ちます」
神保医師は雅と葉那香に向き直り、柔らかく、けれど毅然とした笑みを浮かべた。
「感染対策の徹底と、バイタル急変時の即時中断を条件に……特別室の使用を許可しましょう。最高のお祝いにしてあげてください」
「神保先生……っ、ありがとうございます!」
雅と葉那香は、手を取り合って深く、深く頭を下げた。先生の温かい決断が、不可能と思われていた扉を力強く押し開いた瞬間だった。
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特別室の使用許可が下りたという知らせは、葉那香のスマートフォンのメッセージを通じて、瞬く間に汐見野の街へと伝わった。
それを合図に、下町の大人たちが一斉に動き出す。
「おうし!許可が下りたなら、こっちの出番だ!」
原口工務店の作業場では、大工の辰男が頭に巻いた手ぬぐいを締め直し、電動ノコギリのスイッチを入れた。
「病院の搬入用エレベーターに載るサイズに、木枠を切り揃えろ!衝立の準備も急げ!」
若い衆に怒鳴りながら、辰男は急ピッチでステージ用の木材を切り出していく。彼の手付きには、かつて自分が吐いた無神経な言葉への痛切な懺悔と、腕のいい同業の職人に対する深い敬意が込められていた。
一方、坂ノ上にある豪邸では、園田マダムが、クローゼットから高級な黒のスーツを引っ張り出していた。
「ちょっとあなた、三月なんて言ってる場合じゃないのよ。特例中の特例よ、生徒のお父様の最期の願いなんだから」
「しかしだな、規定では……」
「規定が人を育てるの?あなたがいつも言ってる『生徒に寄り添う教育』って、こういう時のためにあるんじゃないの?」
海風高校の校長である夫に詰め寄り、マダムは強引にスーツを押し付けた。
汐見野の人情が、八木澤家のために総動員され、熱を帯びて奔走していた。
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夕方。総合病院の緩和ケア病棟。
雅と葉那香、そして資材の搬入下見に訪れた辰男が、ナースステーションの近くのラウンジで図面となる紙を囲んで頭を悩ませていた。
「……ステージを作るって言っても、この特別室、機材が多くてどうやって配置すればいいか……」
辰男が頭を掻きむしっていると、カツカツとヒールの音が近づいてきた。
仕事帰りの莉子が、カバンを肩に掛けて姿を現したのだ。
「お母さん……」
雅は少し身構えた。莉子にはまだ、この無茶な病室卒業式の計画を伝えていなかったのだ。合理主義で、物事を理屈や効率で考える母が、こんな感情的で突飛な計画を許してくれるだろうか。
「……雅。あなたたち、病院で一体何をやろうとしてるの?」
辰男の持ってきた木枠のサンプルや、ノートに書かれた手書きの計画書を見て、莉子が眉をひそめる。
雅はギュッと拳を握り、真っ直ぐに母を見た。
「お父さんのために、病院で卒業式をやるの。校長先生も来てくれることになったし、辰男さんがステージを作ってくれる。……どうしても、お父さんに私の晴れ姿を見てもらいたいの」
莉子は、雅の決意に満ちた目と、辰男の手にある木材を交互に見つめた。
沈黙が落ちる。雅が「反対されても絶対にやるから」と言い返そうとした、その時だった。
「……本当に、無茶苦茶ね」
莉子は呆れたように小さく息を吐くと、自分のカバンから大きなロール紙と、建築用の縮尺定規を取り出した。
そして、近くの作業台にロール紙をバサリと広げ、ペンを構えたのだ。
「え……?」
「雅、どきなさい。辰男さん、そこの木枠の厚さは何ミリ?」
莉子の仕事モードのスイッチが入った声に、辰男が慌てて答える。
「あ、厚さは五十ミリだが……」
「そう。それなら……」
莉子は、手慣れた恐ろしいスピードで線を弾き始めた。
「点滴スタンドの動線と、酸素配管のスペースを確実に確保しないと、看護師さんの業務に迷惑がかかるわ。ベッドの配置を壁側に三十センチ寄せて……辰男さん、ステージの木枠はこの寸法で組んでちょうだい」
それは、即興で引かれた『病室ステージ設営図面』だった。
患者の安全と医療機器の動線を完璧に計算し尽くし、かつ、ベッドの上の隼人からもっとも雅の姿が美しく見える角度に配置された、無駄のない洗練された舞台設計。
「お母さん……」
雅は、ロール紙の上を滑る母の手付きに目を奪われた。
莉子は、言葉で「素敵ね」「頑張りましょう」などという情緒的な賛同は一切しなかった。だが、彼女は彼女自身の最大の武器である『建築デザイン』の力を使って、愛する夫のための最高の舞台を整えようとしているのだ。
「……何ボーッとしてるの、雅」
莉子は図面を引きながら、眼鏡の奥の目を少しだけ細めて娘を見た。
「あなたが主役の舞台でしょ。最高の空間は私が作るから……あなたは、お父さんに一番立派な姿を見せる演出を考えなさい」
不器用な母の、深くて熱い愛情表現。
雅の目から、たまらず大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……うんっ!」
雅は涙を拭い、力強く頷いた。
不器用な家族の愛と、汐見野の人々の温かい人情。すべての思いが一つに重なり合い、病室という無機質な空間に、奇跡の卒業式が生まれようとしていた。




