第34話 晴れ姿
二月中旬。海霧の季節が過ぎ、汐見野には刺すような冷たい冬の海風が吹きつけていた。
総合病院の緩和ケア病棟にある特別室は、いつもなら規則正しい電子音と消毒液の匂いに支配された無機質な空間だ。しかし今日、その部屋は全く別の熱気に包まれていた。
「おうし、そこもう少し右に寄せろ!木枠の隙間がないようにキッチリ組むんだぞ!」
ねじり鉢巻姿の辰男の威勢のいい声が響く。彼が率いる原口工務店の職人たちが、冷たいリノリウムの床の上に、手際よく木製のステージを組み上げ、壁には紅白幕を広げていた。
その光景を、ベッドに上半身を起こした八木澤隼人が、酸素マスク越しに静かに見守っている。痩せ細った彼の顔色は青白いが、その目には数日前の絶望的な色はなく、確かな光が宿っていた。
「……点滴スタンドの動線は、設計図通りに確保できているわね。辰男さん、ありがとう」
スーツ姿の妻・莉子が、手元の図面と設営されたステージを交互に見比べながら頷いた。
彼女はベッドの傍らに歩み寄り、眼鏡の奥の瞳を優しく細めて夫を見下ろした。
「どう、あなた。ベッドの上のあなたの目線から、ステージの中央が一番綺麗に見えるように、空間の角度と採光を計算し尽くしたのよ」
「……ああ。さすがは、うちの優秀な建築家先生だ」
隼人は掠れた声で笑い、莉子のシャープな指先に、自分の痩せた手をそっと重ねた。
「俺のために……ありがとな、莉子」
「何を言ってるの。今日は雅の晴れ舞台なんだから、特等席を用意するのは親として当然でしょ」
莉子は照れ隠しのようにそっぽを向いたが、その声は微かに震え、嬉しそうだった。
木枠のステージが完成すると、辰男たちが一枚の敷物を広げた。
それは、隼人がまだ動けた頃、仕事場で端切れを使いながら密かに編み上げていた特注の『畳のござ』だった。
真新しい青々としたござが敷き詰められた瞬間、無機質な病室の中に、懐かしく、そして力強いい草の香りが一気に満ち溢れた。
「……俺の、畳」
隼人が目を細めて呟く。病室にいながらにして、彼が一生を懸けて守り抜いてきた職人の生業が、確かな形となってそこにあった。
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同じ頃、特別室外の廊下では、制服姿の雅が一人で待機していた。
普段は毛玉が少しついたセーラー服を、今日は一段と綺麗に整え、ストレートロングの髪も清楚にまとめている。
ふと、少し開いた病室のドアの隙間から、あの青臭いい草の香りが鼻腔をくすぐった。
(……お父さんの、匂い)
かつては「臭い」と鼻をつまんで避けていたその香りが、今は何よりも愛おしく、雅の胸を強く締め付けた。
この数ヶ月間、迫り来る死の恐怖と闘いながら、ようやく辿り着いた今日という日。ござの香りに込められた父の不器用な愛情を感じ取り、雅の目からポロリと大粒の涙が零れ落ちた。
「ちょっと雅、早い早い。本番前に泣いちゃダメだよ」
背後から温かい声がして振り返ると、同じ制服姿の葉那香が小走りで駆け寄ってくるところだった。
「葉那香……」
「アイメイク、落ちちゃうよ。はい、ハンカチ」
葉那香は優しく微笑みながら、雅の目元をそっと押さえてやった。
「……ありがとう。でも、あの匂いがしたら、なんだか急に実感湧いちゃって」
雅は照れくさそうに鼻をすする。
「そうだね。私も、あんな立派なステージが病室にできるなんて思わなかった。これも全部、雅とおじさんが諦めなかったからだよ」
葉那香は雅の両手を、自分の両手でギュッと力強く握りしめた。
「私、放送部のアナウンスの集大成として、今までで一番の美声で進行するからね。だから雅も、一番綺麗でかっこいい姿を、おじさんに見せてあげて」
「うん。……葉那香がいなかったら、今日という日は絶対に来なかった。本当に、私の最高の親友だよ」
「もう、改めて言わないでよ。照れるじゃん!」
二人は互いの温もりを確かめ合うように笑い合い、小さく頷き合った。
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特別室の中には、汐見野の温かい人情が集結していた。
割烹着を脱いで正装した小料理屋の女将・弥生、仕掛け人である園田マダム、そして彼女の夫である威厳あるスーツ姿の海風高校の校長が、ステージの横で静かに並んでいる。
部屋の隅では、主治医の神保が腕を組み、壁際の生体情報モニターの数値を密かに確認していた。
酸素飽和度も、心拍数も、決して万全とは言えない。少しの無理が命取りになるギリギリの状態だ。しかし、ベッドの上の隼人に視線を移した神保医師は、ふっと眼鏡の奥の目を和らげた。
(……なんて、いいお顔をされているんでしょう)
強烈な羞恥心に苛まれ、病院から逃げ出した初夏。死の恐怖に震えていた冬。これまで数々の過酷な運命を宣告してきた神保にとって、今の隼人の穏やかで誇り高い表情は、医療の枠を超えた人間の魂の強さを感じさせるものだった。
時計の針が定刻を指すと、葉那香が姿勢を正し、マイクの代わりに胸の前へ両手を添えた。
「——ただいまより、県立しおみの海風高等学校、八木澤雅さんの、特別卒業式を執り行います」
よく通る、温かみのある美声が、い草の香る病室に朗々と響き渡った。
その声は、小鳥のように心地よく、しかし式典にふさわしい凛とした響きを持っていた。校長が深く頷き、辰男や弥生たちも背筋を伸ばす。
「卒業生、入場」
葉那香のアナウンスを合図に、病室のドアがゆっくりと開かれた。
そこには、涙の跡を拭い、真っ直ぐに前を見据えた制服姿の雅が立っていた。
一歩、また一歩と、静かな病室に足音が響く。
雅はステージの前に立ち止まると、履いていたローファーを脱ぎ、両足でしっかりと『畳のござ』のステージ上に上がった。
足の裏から伝わってくる、確かな硬さと、植物の温もり。それは、父が家族のために何十年も守り続けてきた、嘘偽りのない愛の感触だった。
(……主役じゃなくていい。靴を脱いで、人の心を落ち着かせる素朴な床)
作業場で父の手から教わった言葉が、雅の足の裏から胸へと一気に駆け上がってきた。
迫り来る別れの痛みも、晴れやかな門出の歓声も、今この部屋にあるすべての感情を、父が編んだござが黙って足元から受け止めてくれている。誰かの心を支えるという、あの骨の折れる責任重大な仕事を、父はずっとこうして全うしてきたのだ。
ベッドの上で、酸素マスクをつけた隼人が、その凛々しい娘の姿を食い入るように見つめている。
反抗期で口もきかなかった娘が、今、自分が打った畳の上で、立派な大人の女性になろうとしている。
隼人の目から、堪えきれずに涙が一筋、枕へと滑り落ちた。
雅もまた、父の真っ直ぐな視線を受け止め、誇らしげに、そして限りなく優しい笑みを返したのだった。




