第8話 親友のお節介
放課後の県立しおみの海風高等学校。
海へと突き出た屋上は、安全基準の金網越しに強めの潮風が吹き抜けていた。眼下には、通称「心臓破りの風待坂」と呼ばれる長い坂道と、汐見野の深い藍色の外海が広がっている。
槙葉那香は、隣に立つ親友の横顔を心配そうに盗み見ていた。
八木澤雅は、金網に寄りかかったまま、ずっと水平線を見つめて黙り込んでいる。彼女の身の回りからは、いつもより少し強めのシトラスの香水の香りが漂っていた。匂いに敏感な雅が香水を強めにつけるときは、何か嫌なことを誤魔化そうとしている時だ。
「雅、どうかした?今日、一日中ぼんやりしてたけど」
葉那香が思い切って声をかけると、雅はゆっくりと顔を向けた。その瞳は、どこか冷めていて、自嘲するような色を帯びていた。
「……親父が、がんになったらしくてさ」
「えっ……」
予想もしなかった重い言葉に、葉那香は息を呑んだ。
「昨日、お母さんが親戚に電話してるのを立ち聞きしちゃった。……乳がん、だってさ」
「乳がんって……おじさんが?男の人もなるの?」
「一パーセント未満だけど、なるらしいよ。昨日ネットで調べた」
淡々と事実を述べる雅の態度は、自分の父親のこととは思えないほど投げやりだった。
「それから親父、ずっと部屋から出てこないの。病院から電話がかかってきても無視して、ふて寝してる。ふっ、馬鹿みたいでしょ」
「雅……」
「男が女の病気になったって、いじけてるんだよ。普段は職人だ何だって偉そうにしてるくせに、かっこ悪いよね。だいたい、家族のことなんて放ったらかしで仕事しか興味無かったんだから、自業自得だよね」
雅は金網を軽く蹴り上げ、ふいっと顔を逸らした。
その言葉を聞いた瞬間、葉那香の胸の奥で、じわりと苛立ちが込み上げてきた。
(どうして、そんな冷たい言い方しかできないの?)
葉那香が幼稚園の頃、両親は価値観の違いから円満に離婚していた。父親は遠くの街で暮らしており、養育費やたまの誕生日のプレゼントは欠かさず届くが、もう何年も直接会っていない。
母の弥生が、元夫の恨み言を一切言わずに女手一つで育ててくれたため、葉那香は父親を嫌いになる理由がなかった。かといって、日常に父親の姿はない。「たまに優しい遠くの父」しか知らない葉那香にとって、父親という存在は常に『宙ぶらりんの距離感』を伴う喪失感そのものだった。
だからこそ、目の前に父親がいるのに、わざと憎まれ口を叩いて向き合おうとしない雅の態度が、たまらなくもどかしく、そして少しだけ羨ましくて、イラついたのだ。
「……自業自得なんて、そんな寂しいこと言わないでよ」
葉那香の声は、思わず硬くなった。
「え?」
「おじさん、部屋から出てこないんでしょ?本当はすごく怖くて、不安なんじゃないの。それを雅が『かっこ悪い』なんて切り捨てるのは、違うと思う」
「だって、親父は私のことなんて……」
「行くよ、雅」
葉那香は雅の手首をガシッと掴んだ。
「ちょ、ちょっと、どこ行くの!?」
「決まってるでしょ。雅の家。おじさんを放っておけないから」
「私はいいよ!顔合わせたくないし!」
「ダメ。行くの」
葉那香は抵抗する雅を半ば強引に引っ張り、屋上の扉を開けて階段を駆け下りた。
幼い頃から、隼人は葉那香にとって親戚のおじさんのような存在だった。母の小料理屋に来ては、不器用ながらも葉那香の頭を撫でてくれたあの大きくて硬い手を、見捨てることなんてできるはずがなかった。
+++
八木澤家に到着すると、家の中はしんと静まり返っていた。母親の莉子は仕事に出ていた。
廊下を進むと、特有のい草の青臭い香りが強くなる。作業場の奥にある隼人の自室の前まで来ると、雅はピタリと足を止めてしまった。
「……やっぱり、私、ここで待ってる」
俯いたまま動こうとしない親友を見て、葉那香は小さくため息をついた。これ以上無理強いしても、雅が素直になれないのはわかっている。
「わかった。そこで見守ってて」
葉那香は雅を残し、隼人の部屋の前に立った。
ふすまの奥からは、何の物音も聞こえない。まるで、部屋の主が息を潜めて世界から消えようとしているかのような、重苦しい静寂だった。
「おじさんいる?私、葉那香。開けるよ!」
葉那香はふすまに向かって呼びかけ、大きく深呼吸をすると、遠慮など一切捨てて、閉ざされたふすまの取っ手に手をかけた。
ダンッ!と、乱暴な音を立ててふすまを開け放つ。
「……っ!?なんだ!?」
薄暗い部屋の中、万年床に寝転がっていた隼人が、驚いてガバッと身を起こした。無精髭が伸び、目は落ち窪み、普段の威勢のいい職人の面影はすっかり消え失せていた。
「は、葉那香ちゃんか……。急に、どうしたってんだ……」
「おじさん!」
葉那香は部屋に踏み込み、隼人を上から見下ろしてビシッと指を差した。
「ちょっと病気になったくらいで、父親をやめる気ですか!」
痛いところを突かれた隼人は、目を丸くして呆然とした。
「な、何を言ってるんだ。俺は別に……」
「病院からの電話、無視してるって聞きましたよ!部屋に引きこもって、仕事も家族も放ったらかしにして、いじけてる場合じゃないでしょ!」
「お、お前に何がわかる!」
隼人は布団を跳ね除け、声を荒らげた。
「男が乳がんだなんて、ありえねぇだろ!こんな病気になったって知られたら、外を歩けるか!恥ずかしくて、情けなくて……俺はもう、男としても職人としてもお終めぇなんだよ!」
その言葉には、強烈な羞恥心と絶望、そして弱音を吐き出せない不器用な男の悲痛な叫びが込められていた。
しかし、葉那香は一歩も引かなかった。
「恥ずかしいなら、私が一緒に歩きます!」
「……は?」
「病院に行くのが恥ずかしいなら、私が付き添います!待合室で居心地が悪いなら、私がずっと隣で話しかけてあげます!愚痴があるなら、いくらでも私が聞きます!」
母子家庭で育ち、母親の背中を見て育った葉那香は、持ち前のコミュニケーション能力とおせっかい焼きの気質をフル稼働させて捲し立てた。
「おじさんは、雅のお父さんでしょ!病気になったからって、自分からも家族からも逃げないでください。ちゃんと治療して、また元気になって、あのうるさいくらい元気な畳を打つ音を聞かせてよ!」
葉那香の真っ直ぐで遠慮のない言葉の連続に、昔気質でプライドの高い隼人は完全に気圧され、ポカンと口を開けたまま言葉を失ってしまった。
普段なら「ガキが口出しするな」と怒鳴り散らすところだが、葉那香の真剣な瞳を前にすると、なぜか反論する気力が湧いてこなかった。
「……次の通院日、迎えに来ますからね。絶対に病院、連れて行きますから!」
葉那香はそれだけ言い捨てると、ふんっと鼻を鳴らして踵を返した。
廊下に出ると、壁の陰に隠れるようにして立っている雅の姿があった。
雅は少しだけ目を赤くして、葉那香と、ふすまの開いた部屋の奥にいる父親を交互に見つめていた。
雅のプライドが高く意地っ張りな性格では、父親にあんな風に真っ直ぐぶつかることは絶対にできない。だからこそ、雅はただ黙って、親友と父親のやり取りを見つめていることしかできなかった。
「行くよ、雅」
葉那香が微笑みかけると、雅は無言のままでいた。
他人の家庭の事情に、都合よく入り込みすぎているのかもしれない。葉那香自身、心のどこかでそんなストッパーが働きかけてはいた。
しかし、父親がいなくて寂しい思いをしてきたわけではなくても、そばに父親がいるのならそれに越したことはないと知っている。だからこそ、この不器用な親子の関係が完全に壊れてしまうのを、どうしても見過ごすことはできなかったのだ。




