第7話 孤独
あれから一週間後。朝の光が差し込む八木澤家のダイニング。
テーブルの上には、脂の乗った焼き鮭、ほうれん草のお浸し、具沢山の豚汁、そして消化の良い出汁巻き卵と、栄養バランスが完璧に計算された朝食が並べられていた。
しかし、隼人はその食事にほとんど手をつけることができず、ただぼんやりと箸先を見つめていた。
「……食欲、ないの?」
向かいの席に座る妻の莉子が、手元の図面からふと顔を上げて尋ねた。
「ああ。ちょっと胸のあたりが張っててな……」
隼人は左胸に走るチクチクとした痛みを誤魔化すように、ぬるくなったお茶をすすった。
「これ、置いておくわね」
莉子は傍らに置いていた建築雑誌の横から、数枚のプリントアウトした紙を取り出し、隼人の手元へと滑らせた。
「なんだ、これは」
「県内で乳腺外科の評判がいい病院のリストよ。男性乳がんの症例を扱ったことがある名医もピックアップしておいたわ。今の病院が合わないなら、早めにセカンドオピニオンを受けるべきよ」
莉子が用意したリストは、交通アクセスから医師の経歴、最新の治療設備までが事細かにまとめられており、彼女の有能さが滲み出ていた。消化の良い献立といい、詳細なリストといい、彼女なりに夫の身体を気遣い、時間と労力を割いてくれていることは間違いない。
しかし、その声のトーンはどこまでも平坦で、事務的だった。
「珍しい病気みたいだけど、今は医療も進歩しているわ。早期なら完治できるらしいし、治療費のことは気にしなくていいから。最適な治療を選択して、効率よく治して、早く仕事に戻るといいわ」
莉子は視線を建築用の縮尺定規に向けたまま、淡々と言い放った。
その言葉は、隼人の胸の奥にある不器用な自尊心を、無情にも通り過ぎていった。
(男が、女の病気に罹ったかもしれないんだぞ……。俺が今、どれだけ恥ずかしくて、情けない思いをしてるか、こいつには分からないのか)
「……わかった。リストは後で見とく」
「予約を取るなら早い方がいいわ。スケジュールが決まったら教えてちょうだい。仕事の調整をしておくから」
「……ごちそうさん」
隼人は半分以上残った白米から目を逸らし、逃げるように席を立った。
バランスの取れた温かい食事も、完璧にリサーチされた病院のリストも、今の隼人にとってはただの気休めに過ぎなかった。妻の合理的な優しさは、極度の羞恥心と不安に苛まれる隼人にとって、むしろ「親身になってくれていない」「俺の恐怖心には興味がないのだ」という絶望的なすれ違いを痛感させるだけだった。
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八木澤畳店の作業場の奥にある、隼人の自室。
長年染み付いた青臭いい草の香りが漂う薄暗い部屋で、隼人は万年床の上に仰向けに転がっていた。
天井の木目を数えながら、胸の奥に渦巻く黒い感情に押し潰されそうになっていた。
(なんで俺が、乳がんなんて……)
長年、己の腕一本で重い畳を担ぎ、職人としてのプライドだけで伝統を守って来た。
それなのに、「女の病気」にかかったという強烈な羞恥心が、彼の男としての尊厳をズタズタに引き裂いていた。おまけに、妻からは事務的な正論を突きつけられ、娘の雅からは反抗期で避けられている。
家族の中で完全に孤立しているという冷え切った現実が、彼の心を塞ぎ込んでいた。
その時、枕元に放り投げていたスマートフォンが、無機質な着信音を鳴らした。
画面には『総合病院・乳腺外科』の文字が表示されている。先日の検査結果を聞くための予約を無断ですっぽかしたため、病院側から催促の電話がかかってきたのだ。
「……っ」
隼人は苛立たしげに舌打ちをして、通話ボタンを強く押した。
『八木澤さんですか。担当医師の神保です。本日の診察、いらっしゃっていませんが、どうされましたか?』
電話の向こうから、主治医の冷静な声が聞こえてきた。
「ああ、先生か。悪いが、もう病院には行かない。結果もどうでもいい。放っておいてくれ」
隼人が自暴自棄になって一方的に電話を切ろうとした瞬間、神保が鋭い声で引き留めた。
『お待ちください。八木澤さん、そういうわけにはいきません』
「なんでだ。俺の身体なんだから、俺の勝手だろうが」
『検査結果が出ています。電話では言えませんから、必ず、明日にでもご家族とご来院いただきたいのです』
「電話では言えない?」
昔気質で勘のいい隼人は、その言葉の裏にある意味を瞬時に察知した。
「言えないってことは、そういうことなんだろ!?」
隼人は跳ね起き、電話口に向かって激昂した。
『八木澤さん、落ち着いて……』
「がんなのか、違うのか。それだけ答えろ!わざわざあんな女ばかりの病院に行って、恥晒しな病名を突きつけられる身にもなってみろ!」
電話の向こうで、神保の重い沈黙が流れた。
窓の外から、汐見野の海風が松の枝を揺らす微かな音が聞こえる。
数十秒にも感じられる重苦しい間の後、神保は静かに、しかし毅然とした声で口を開いた。
『……命に関わる病気の放置を絶対に防ぐための、最後の手段としてお伝えします。本来なら、対面できちんとお話しすべきことですが、これ以上先延ばしにはできません』
神保は短く息を吸い込んだ。
『……はい。細胞診の結果、悪性腫瘍でした』
「…………」
宣告の言葉が、隼人の脳内で反響した。
全身の血の気が引き、持っていたスマートフォンが手から滑り落ちそうになる。
『八木澤さん?聞いていますか。決して治らない病気ではありません。今後の治療方針について、針生検やCTなどの精密検査、そして手術のスケジュールを立てる必要があります。すぐに……』
「……もう、いい」
隼人は神保の言葉を遮り、力なく通話終了のボタンを押した。
悪性腫瘍。乳がん。それも男性。
紛れもない事実として突きつけられた病名は、隼人からすべての気力を奪い去った。
精密検査も、手術のスケジュール決めも、真っ平ご免だった。女性ばかりのあのピンク色の待合室に座り、自分の身体を切り刻まれるなど、職人のプライドが絶対に許さなかった。
隼人はスマートフォンを畳の上に放り投げ、窓際へと歩み寄った。
古びた庭石と、手入れの行き届いていない松の木が見える。
彼は力なく座り込み、ただぼんやりと庭を眺め始めた。
(俺の人生、どこで間違えちまったんだろうな……)
家族のためにすり減らしてきた無骨な手。会話の消えた食卓。
仕事しかしてこなかった男の末路がこれかと思うと、自嘲の笑みがこぼれた。
仕事も手につかず、ただ部屋に閉じこもって人生を振り返るだけの、出口のない孤独な時間が、隼人をさらに深い闇の中へと引きずり込んでいった。




