第6話 冷えきった家族
「男の俺がですか?何かの間違いじゃないんですか。男が女の病気にかかるなんて……」
強烈な羞恥心と動揺から、隼人の声が荒くなる。
しかし、神保は過剰に腫れ物に触るような態度はとらず、毅然とした眼差しで隼人を真っ直ぐに見据えた。
「確かに、男性の乳がん発症率は全乳がんの1パーセント未満と非常に稀です。ですが、男性にも乳腺はあり、乳がんになる可能性は誰にでもあります。決して、男が女の病気にかかったわけでも、恥じる病気でもありません」
「恥じる病気じゃ、ない……?」
神保の誠実な言葉は、かえって隼人の胸をえぐった。
(そんな正論、どうやって受け入れろって言うんだ)
「がんであろうとなかろうと、これ以上の放置は危険です。悪性かどうかを確定させるために、今日この後すぐに、しこりに直接針を刺して細胞や組織を採る『細胞診』を行わせてください」
「針を刺す……」
「はい。局所麻酔をしますので痛みは少ないですが、確実な診断のために必要な検査です。よろしいですか?」
「……まな板の上の鯉、ってやつですね。勝手にしてやってください」
投げやりに答える隼人の声は、震えていた。
神保は小さく頷き、真剣な面持ちで隼人を見つめ直した。
「八木澤さん。今日おこなう検査の結果が出るのは来週になります。その時、ご家族と一緒に結果を聞きに来ていただけますか?」
「家族……ですか」
「はい。もし本格的な闘病となった場合、ご家族の支えは必要不可欠になります。どうか、ご家族にも現状をお話ししてください。次回は、必ずご家族と一緒に来てくださいね」
「……」
隼人は押し黙った。仕事に没頭する妻と、自分を避ける娘の顔が脳裏をよぎる。あの冷え切った家で、男の自分が乳がんだなどと、どうやって打ち明ければいいというのか。
その後、再び処置室へと連れて行かれた隼人は、胸のしこりに太い針を突き刺される感触に耐えながら、自分の尊厳が音を立てて崩れていくのを感じていた。
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同じ頃、湊元町の路地裏にある小料理屋「まき」。
暖簾を下ろし、店内の片付けをしていた葉那香は、カウンターを拭きながらふうっと息をついた。
「お疲れ様、葉那香。今日も助かったわ」
割烹着姿の母・弥生が、賄いのおにぎりと温かいお茶を差し出してくれた。
「ありがとう、お母さん。……ねえ」
「ん?どうしたの?」
「最近、八木澤のおじさん、全然お店に来ないね」
葉那香が棚の上に並ぶ『莉子へ』と書かれた封の開いていないワインボトルを見上げて言うと、弥生も手を止めてそちらを見た。
「そうねえ。いつもなら週に二回は顔を出すのに。仕事が忙しいのかしらね」
「雅もこの前、『最近親父がコソコソしててさらにウザい』って愚痴ってたし……何かあったのかなって」
葉那香の脳裏に、いつもい草の匂いをさせている無骨な隼人の顔と、彼を嫌悪する雅の顔が浮かぶ。
葉那香の家は、父はいないが母の弥生が明るく愛情深く育ててくれたおかげで、寂しさを感じることは少なかった。だが、雅の家は両親が揃っているのに、いつも冷たい風が吹いているように見える。
「心配?」
弥生が優しく微笑みかける。
「うん。雅、ああ見えて結構繊細だし。おじさんのことも、本当はどうでもいいなんて思ってないはずだから」
「あんたはお節介焼きだからね。でも、他人の家族の問題に、あまり深入りしすぎないようにね。踏み込まれたくない領域ってのも、人にはあるんだから」
「それくらい……わかってる、けどさぁ」
葉那香は手元のお茶を見つめながら、小さく頷いた。
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すっかり日が落ちた夜。
八木澤家のダイニングには、重苦しい沈黙が満ちていた。
細胞診を終え、疲弊しきって帰宅した隼人は、意を決して妻の莉子と娘の雅をテーブルに呼び出していた。
「……で?話って何?私、まだ仕事残っているんだけど」
莉子は苛立たしげに腕時計を見た。彼女の視線は、ダイニングテーブルの端に置かれた建築用の縮尺定規に向けられている。
「私も、これから宿題したいし。早くしてよ」
雅はスマートフォンを弄りながら、父親の顔を見ようともしない。
隼人は深く息を吸い込み、搾り出すように言った。
「……今日、病院に行ってきた。胸のしこりから、血が出たからだ」
ピタ、と雅の指が止まった。
「検査の結果……乳がんの、疑いがあるって言われた」
ダイニングの空気が凍りついた。
男である自分が乳がん。その言葉を家族に伝えることが、どれほど屈辱的で、恥ずかしいことか。隼人は膝の上で拳を強く握りしめた。
しかし、返ってきた莉子の声は、拍子抜けするほど淡々としていた。
「そう。……で、治るのよね?」
「……え?」
「男の乳がんって珍しいわね。よくわからないけど、手術すれば治るんでしょ。治療費なら私が出すから心配しないで、一番腕のいい病院を探して進めていきましょう」
合理主義の莉子は、まるで建物の修理の見積もりでも出すかのように、事務的に処理しようとした。
「お前……俺が、どれだけ惨めな思いをして……!」
「惨め?病気になったんだから仕方ないじゃない。感情論で病気が治るわけ?効率よく治す方法を考えるのが先決でしょ」
莉子の言葉に、隼人は絶句した。男のプライドや、女性だけがなる病気だと勘違いしていたものを患ったという恥ずかしさ。そんなナイーブな感情など、彼女には一ミリも理解できていなかった。
「……雅」
救いを求めるように娘を見ると、雅は顔を歪めて立ち上がった。
「私がそれを聞いたところで、でっ?って感じ。何もできるわけじゃないし……」
「雅……」
「まぁ、勝手にすればいいじゃない?」
雅は冷めた口調でそれだけを言うと、足早に自室へと戻り、乱暴に扉を閉めた。
パタン、と乾いた音が響く。
「……話が終わったなら、私は仕事に戻るわね。明日も早いし」
莉子はそう言い捨てると、すぐにパソコンを開き、無機質なCADソフトの画面に向かい始めた。マウスのクリック音だけが、冷え切ったダイニングに響く。
「……ああ。話は以上だ」
隼人は力なく立ち上がると、自分の部屋へ向かった。
襖を閉め、真っ暗な部屋の中で布団の上に座り込む。
壁の向こうからは、莉子が図面を引くカリカリとした音と、雅の部屋から漏れ聞こえる重低音の音楽が微かに響いてくる。
一つ屋根の下に家族が揃っているのに、誰も自分を見ようとしない。
「……っ」
隼人は両手で顔を覆った。
頑固な昭和の職人は、誰にも知られることなく、深い孤独の殻の中に完全に閉じこもってしまったのだった。




