第5話 総合病院の乳腺外科
四月上旬。桜が咲き始めた汐見野市に、重く湿った春の海風が吹き込んでいた。
総合病院の乳腺外科・待合室。
パイプ椅子が並ぶその空間は、どこを見渡しても女性の患者ばかりだった。ピンク色を基調とした啓発ポスターが壁に貼られ、棚には女性向けの雑誌が並んでいる。
その中で、作業着姿の八木澤隼人は、周囲から完全に浮いていた。
(なんで俺が、こんな女ばかりの所に……)
帽子を深く被り、肩を丸めて座る隼人の背中には、周囲の視線が突き刺さっているように感じられた。昭和気質の職人として生きてきた彼にとって、この空間に座っていること自体が、耐え難い気恥ずかしさと屈辱だった。
「八木澤さん、中待合へどうぞ」
看護師に呼ばれ、逃げるように立ち上がる。
案内されたのは検査室だった。問診の前に行われるのは、マンモグラフィと呼ばれる乳房X線撮影と、超音波エコー検査だという。
「上着を脱いで、こちらの装置の前に立ってください」
担当したのは、若い女性の放射線技師だった。
隼人は渋々作業着を脱ぎ、厚い胸板を晒した。
「少し痛みますが、我慢してくださいね。機械で胸を挟みます」
冷たいプラスチックの板の間に、左胸のしこりがある部分を強く挟み込まれる。
「うっ……」
物理的な痛みもさることながら、女性技師の事務的な手つきで胸を引っ張られ、機械に固定されるという行為が、隼人の男としてのプライドを粉々に打ち砕いていく。
(俺は、一体何をやってるんだ……)
己の惨めさに、隼人は目を固く閉じた。
続く超音波エコー検査でも、暗い部屋でベッドに仰向けにされ、胸に冷たいゼリーを塗られて機械を滑らせられた。モニターを見つめる検査技師の表情からは、何も読み取ることはできなかった。
+++
検査を終え、再び待合室で長い時間を過ごした後、隼人はついに診察室へと通された。
「お待たせしました、八木澤さん。担当の神保です」
デスクに座っていたのは、タイトなまとめ髪にメタルフレームの眼鏡をかけた、理知的な雰囲気の女性医師だった。乳腺外科医の神保恵津子(45歳)だ。
「紹介状と画像は拝見しました。お話しに入る前に、まずは患部の状態を直接確認させてください。上着を脱いで、そちらの診察台に腰掛けていただけますか」
落ち着き払った声で促され、隼人は息を詰めた。
(また、脱ぐのか……)
先ほどのマンモグラフィやエコー室の屈辱が、再び胸の奥で苦く蘇る。
逃げ出したい衝動を必死にねじ伏せ、隼人はぎこちない手つきで作業着のボタンを外し、下着のシャツをめくり上げた。
診察台に浅く腰掛け、剥き出しになった己の上半身を晒す。
隼人の身体は、何十年も重い畳を担ぎ、太い畳針を渾身の力で引き抜いてきた職人の肉体そのものだった。分厚く盛り上がった大胸筋、浅黒く日焼けした皮膚、節くれだった腕。
だが、その男らしい胸板の左側、乳頭のすぐ下には、硬くいびつなしこりが居座り、血の混じった分泌液の痕跡が痛々しく残っていた。
神保が静かに歩み寄り、隼人の正面に立った。
眼鏡の奥にある怜悧な瞳が、隼人の左胸をじっと見つめる。皮膚の引きつれ、乳頭の陥没、変色の有無——医師として当然の視診なのだろうが、隼人にとっては針の筵に座らされているのと変わりなかった。
長年連れ添った妻の莉子以外の女性に、白昼堂々、己の裸身を凝視されることなど、これまでの人生で一度たりとも経験したことがない。ましてや、女の病気の巣窟と化した無様な胸元を、年下の女性医師につぶさに観察されているのだ。
(……早く終わらせてくれ)
奥歯をギリリと噛み締め、隼人は視線を天井の隅へと逸らした。
全身の毛穴から嫌な脂汗が噴き出し、頭の芯がカッと熱くなる。何十年もかけて積み上げてきた職人としての威厳も、男としての誇りも、その冷徹な視線の下で一枚ずつ剥ぎ取られ、足元から音を立てて崩れ落ちていくようだった。
「失礼しますね。少し触ります」
神保の手指が、そっと隼人の左胸に触れた。
ゴム手袋越しに伝わる、ひんやりとした無機質な冷たさに、隼人の身体がビクッと跳ねる。
「力を抜いて、息を楽にしてください」
神保は淡々とした声で言いながら、指の腹で左胸のしこりを丹念に押さえ込んだ。
グリ、と骨の奥に擦りつけるように指先が滑る。しこりの大きさ、硬さ、深部の筋肉との癒着の度合いを確かめるための、正確で容赦のない触診だった。
「ッ……」
鋭い痛みが走り、隼人は短く息を漏らした。
痛覚以上に彼を打ちのめしたのは、女性の指先によって、己の乳房を無遠慮にまさぐられているという生々しい感触だった。
神保の手には、微塵の悪意も私情もない。極めて純粋で、誠実な医療行為だ。だが、その混じり気のないプロフェッショナルな事務処理感こそが、かえって隼人の男としての自尊心を無残に引き裂いていく。
(長げえな……そこまで丁寧にやらなくても……)
重い畳床を軽々と持ち上げていた腕は、今や膝の上で情けなく震えていた。
自分は地域随一の熟練職人などではなく、ただ女性ばかりの病院で服を脱がされ、言われるがままに身体を差し出す哀れな中年男に過ぎない。妻にすら見せたことのない弱みと無防備な肉体を赤の他人に暴かれ、男の尊厳が完全に摩耗し、消えてなくなってしまいそうだった。
神保の手指は、しこりの周囲から、さらに左の脇の下へと深く潜り込んだ。腋窩リンパ節の腫れを確かめるため、窪みの奥を強く圧迫される。
数分だが、数時間にも感じられる屈辱の沈黙の末、ようやく神保の手が身体から離れた。
「はい、結構です。痛かったですね。服を着て、椅子へお戻りください」
神保が手袋を外し、アルコールで手指を消毒する乾いた音が響く。
「……すいません」
隼人は掠れた声で小さく答え、逃げるようにシャツを引き下げ、作業着の前をきつく掻き合わせた。衣服の布地が肌に触れた瞬間、ようやく冷たい現実から自分を守る殻を取り戻したような気がしたが、失われた自尊心の重みは二度と戻ってはこなかった。
診察室の回転椅子に、力なく身を沈める。
神保はモニターに映し出されたマンモグラフィとエコーの白黒の画像を見つめ、静かに口を開いた。
「単刀直入に申し上げます。先ほどの画像検査の結果ですが……左胸のしこりは、乳がんの疑いが極めて高い状態です」
「……乳がん?」
隼人は間の抜けた声を出した。




