第4話 招かねざる紹介状
数日後の午後。
海からの湿った風が吹き付ける中、隼人は誰にも告げず、自宅から少し離れた場所にある『山之内内科クリニック』の前に立っていた。
いつも風邪を引いた時などに世話になっている、町の内科医だ。
自動ドアを抜けると、消毒液の匂いと微かなクラシック音楽が漂ってきた。平日の午後とあって、待合室には数人の高齢者が座っているだけだった。
隼人は受付で診察券を出すと、待合室の最も隅にある長椅子に腰を下ろし、被ってきた作業帽のツバを深く下げた。
(知り合いに見つかったら、面倒だからな……)
地域随一の熟練職人として顔が広い隼人にとって、白昼堂々、病院の待合室に座っている姿を見られるのはバツが悪かった。昔気質で頑固な彼は、少々の怪我や体調不良など気合いで治すものだと信じて生きてきたのだ。
胸のしこりから浸潤液が染み出しているのを見た日から、作業中も違和感が拭えなくなっていた。
(ただの粉瘤が化膿しただけだ。切って膿を出して、軟膏でも塗ってもらえばすぐに治る)
祈るような気持ちで、隼人は腕を組んだ。
分厚い作業着の下で、左胸のしこりが心臓の鼓動に合わせて鈍く脈打っているような気がした。
「八木澤さん、一番診察室へどうぞ」
看護師に呼ばれ、隼人は立ち上がった。帽子を取り、診察室の扉を開ける。
「やあ、八木澤さん。今日はどうしました?珍しいですね、あなたがこの時期に風邪ですか」
白衣姿の山之内先生が、温和な笑顔で迎えてくれた。
山之内先生は、自身の娘が家を建てた際、和室に隼人の打った畳を納品させてもらったほどの仲の良い付き合いである。
「いや、先生。風邪じゃねえんです。……その、ちょっと胸に妙なおできができちまって」
「おでき、ですか?」
「ええ。一月上旬くらいから左胸にしこりみたいなもんがあって。最近、そこから黄色い汁みたいなのが出るようになっちまいましてね。仕事着が汚れて困るんで、パッと治るような薬でも出してもらえねえかと」
隼人が無理に作ったような笑みを浮かべて言うと、山之内先生は少しだけ真面目な顔つきになった。
「なるほど。少し、診せていただけますか。シャツをめくって」
「ああ、はい」
隼人は丸首のシャツをたくし上げ、左胸をあらわにした。
山之内先生は手袋をはめ、隼人の左乳頭の直下にある硬いしこりに指先を当てた。
その瞬間、先生の指の動きがピタリと止まった。
「……」
触診を続ける山之内先生の表情から、先ほどまでの温和な笑みが完全に消え去った。眉間に深い皺が寄り、その顔がみるみるうちに曇っていくのを、隼人は至近距離で見つめていた。
(なんだ……?そんなに酷い化膿なのか?)
沈黙が、やけに長く感じられた。
やがて、山之内先生はゆっくりと手袋を外し、重い口を開いた。
「八木澤さん。このしこり……硬さといい、周囲との癒着具合といい、少し嫌な感じがします」
「嫌な感じってのは、どういう……」
「うちのような内科のクリニックでは、これ以上の詳しい検査ができません。念のため、総合病院で精密検査を受けてください」
そう言うと、山之内先生はデスクに向かい、素早い手つきで紹介状を書き始めた。
「精密検査?いやいや、先生。大袈裟な。ただの粉瘤でしょう?男の胸にできるもんなんて」
「八木澤さん」
山之内先生は振り返り、隼人の目を真っ直ぐに見据えた。
「万が一ということがあります。できるだけ早く、紹介状を持って受診してください」
プリントアウトされた紹介状が、封筒に入れられて隼人の前に差し出された。
そこには『総合病院乳腺外科 乳腺外科 部長 神保先生 御侍史』と印字されていた。
「……乳腺外科?」
隼人は目を疑った。
「なぜ、男の俺が乳腺外科なんかに……」
「男性にも乳腺はあります。極めて稀ですが、異常が起きることもあるんです。とにかく、専門の先生に診ていただいてください」
総合病院。精密検査。乳腺外科。
全く結びつかない単語の羅列に、隼人は強い困惑と、得体の知れない強烈な胸騒ぎを覚えた。
受け取った封筒が、鉛のように重かった。
「……わかりました。お手数かけました」
絞り出すようにそれだけを言い、隼人は逃げるように診察室を後にした。
+++
すっかり日が落ちた汐見野の街を、隼人は重い足取りで歩いていた。
(乳腺外科、だと……?)
カバンの中に入れた紹介状が、まるで時限爆弾のように隼人の神経を逆撫でしていた。
乳腺。それは女のものだろう。男である自分が、なぜそんな科に行かなければならないのか。
「冗談じゃねえぞ……」
無意識のうちに悪態をついていた。昔気質で男のプライドが高い隼人にとって、「女性の病気」を疑われること自体が、頭を殴られたような強烈な羞恥心だった。
八木澤家の玄関を開けると、家の中はひっそりと静まり返っていた。
「……ただいま」
リビングに続く扉を開けると、そこにはいつもと変わらない光景が広がっていた。
ダイニングテーブルの半分を占領するように図面が広げられ、妻の莉子が眼鏡の奥の目を光らせて、縮尺定規とペンを走らせている。
株式会社ハートフル建築設計事務所の代表であり、一級建築士でもある彼女は、一度仕事モードに入ると周囲のことが全く目に入らなくなる。
「……おかえりなさい」
莉子は図面から目を離すことなく、機械的な声で返事をした。
テーブルの反対側では、娘の雅が無言で夕食の箸を動かしている。ここ3か月はまともな口をきいていない彼女の周りからは、今日も話しかけないでオーラが漂っている。
隼人がダイニングに入ると、い草の青臭い香りが部屋に混ざる。雅は微かに眉をひそめ、食事のペースを早めた。
(……病院に行ってきた。乳腺外科に行けと言われた)
隼人は口を開きかけたが、声が出なかった。
仕事に没頭する妻と、父親を嫌悪する娘。この冷え切った空間で、一体誰が自分の言葉に耳を傾けてくれるというのだろうか。
「ごちそうさま」
雅は手早く食器を片付けると、隼人と目を合わせることもなく、食器を洗って足早に自室へと戻っていった。
パタン、と扉が閉まる音が、静かな家の中に冷たく響く。
「……」
隼人はダイニングの椅子にどっかりと腰を下ろした。
目の前では、莉子がCADソフトを開いたノートパソコンと図面を交互に見比べながら、マウスを忙しなくクリックしている。彼女は物事を理屈や効率で解決しようとする合理主義者であり、隼人のような感情論や情緒的なやり取りが年を取るにつれ強くなり、それを苦手としていた。
(言えるわけがねえだろ、莉子には……)
互いの仕事に誇りを持ち、その延長で惚れ合って一緒になったはずだった。妥協を許さない彼女の建築が好きだったし、彼女もまた、自分の打つ畳を尊重してくれていた。
それがいつしか、会話は減り、家庭内でお互いに迷惑をかけないことだけを優先するような、余所余所しい空気が当たり前になっていた。今の莉子にとって、自分はただ「同じ屋根の下で生活を回す同居人」に過ぎないのかもしれない。
そんな相手に、男が乳腺外科にかかる恥ずかしさや、病気への怯えなんて惨めな弱音を晒せるはずもなかった。打ち明けたところで、無表情のまま「なら早く受診してきなさい」と事務的に処理されるのが目に見えていた。
「……あなた、ご飯そこにあるから。温めて食べて」
図面から目を離さないまま、莉子が言った。
「……ああ。わかってる」
隼人はカバンを強く握りしめた。
中に入っている紹介状の存在が、ますます重く感じられた。
誰にも言えない。誰にも知られたくない。
家族が同じ家にいるのに、隼人は海の底に一人で沈んでいくような、圧倒的な孤独と孤立感に包まれていた。
左胸の奥で、しこりが再びチクリと痛んだ。




