第3話 悪化
三月下旬。春休みを目前に控えた汐見野市には、まだ冷たい海風が吹きつけていた。
八木澤畳店の作業場では、隼人が一人、分厚い畳床と格闘していた。
時代遅れと言われようと、守り続ける昔ながらの手作業。
分厚い畳床に太い畳針を突き立て、麻糸を引き抜くたび、隼人の分厚い胸板と節くれだった腕の筋肉が隆起する。
「ッ……」
力を込めた瞬間、左の乳頭の奥でチクリと鋭い痛みが走った。
思わず動きを止め、太い息を吐き出す。
一月に風呂場で気づいた、左胸の小さな硬いしこり。「胸筋を痛めたか、ただの粉瘤だろう」と自己判断し、誰にも言わずに放置して二ヶ月が経とうとしていた。
だが、最近になってしこりは明らかに硬く、大きくなっている。作業着が擦れるだけで走る痛みも、日に日に増していた。
隼人は畳針を置き、作業着の胸元を無意識に押さえた。
その時、指先に微かな湿り気を感じて、隼人は顔をしかめた。
(汗か……?)
訝しげに胸元を引き下げ、作業着の裏側を見る。
そこに染み付いていたのは、汗ではなかった。血が混じった、くすんだ黄色の浸潤液だった。
「なんだ、こりゃ……」
血の気が引くのを感じた。単なる粉瘤から、こんな気味の悪い液が出るものだろうか。
(いや、ただ化膿して膿が出てるだけだ。大したことじゃねえ)
自分に言い聞かせるように呟くが、拭いきれない違和感と不安が胸の奥で渦巻いた。
しかし、隼人の手仕事を頼りにしてくれている古くからの客は大勢いる。「八木澤が打った畳でなければ足の裏が落ち着かない」と言ってくれる贔屓客の期待を、得体の知れない不安ごときで裏切るわけにはいかなかった。
「……ふう」
隼人は浸潤液の染みを隠すように作業着の前をきつく合わせると、再び太い畳針を手に取った。い草の青臭い香りの奥に、今まで感じたことのない不吉な影がちらついていた。
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『——みなさん、こんにちは。本日の放課後放送は、二年B組の槙葉那香がお送りします』
夕暮れ時の海風高校。生徒たちが部活動へ向かったり、下校していく中、校内放送のスピーカーから、よく通る温かみのある美声が響き渡った。
放課後の静かな教室で、雅は一人、窓枠にもたれかかって海を眺めていた。
彼女の親友である葉那香の声は、中学時代に地域の朗読コンテストで市長賞を受賞しただけあって、耳に心地よく馴染む。
『春休みまであと少し。四月になれば、私もいよいよ三年生です。クラス替えや進路のこと、色々考えて不安になる時期でもありますよね。……そんな時だからこそ、皆さんに少し考えてみてほしいことがあります』
スピーカーの向こうで、葉那香が優しく語りかける。
『皆さんは最近、身の回りの大切な人に「ありがとう」と感謝を言えていますか?家族でも、友達でも、先生でも。近すぎるからこそ、恥ずかしくて言えない言葉ってあると思います。でも、言わなきゃ伝わらない思いもあります。今日、家に帰ったら、あるいは隣にいるその人に、少しだけ勇気を出して伝えてみてはいかがでしょうか?』
「……感謝、ね」
雅は小さく鼻を鳴らした。
真っ先に頭に浮かんだのは、いつも図面ばかり見ている合理主義の母と、青臭い畳の匂いをさせている無骨な父の顔だった。
冷え切った食卓。会話のない両親。
『ありがとう』なんて言葉、あの家の中で最後に聞いたのはいつだったか、雅には思い出せなかった。
『——それでは、今日の放送はこの辺で。葉那香でした。皆さん、気をつけて帰ってくださいね』
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放送が終わってから十分ほど経った頃、「お待たせ!」という元気な声とともに、葉那香が教室に駆け込んできた。
「ごめんね雅、待たせちゃって。……それと、いつも友達でいてくれてありがとう」
葉那香が少し照れくさそうに言うと、雅は目を丸くした後、ふっと口元を緩めた。
「ううん。お疲れ様。相変わらずいい声してるわね。……私こそ、いつも愚痴を聞いてくれてありがとう」
二人は顔を見合わせると、どちらからともなく楽しげに笑い合った。
「えへへ、どういたしまして!さ、帰ろ帰ろ」
二人は鞄を手に取り、水平線が一望できる窓に背を向けて教室を出た。
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学校を出て、海風が吹き上げる『風待坂』をゆっくりと下っていく。
「ねぇ、さっきの放送の事だけど」
「うん。大切な人に感謝を伝えよう、でしょ?」
「そう!雅も今日、お父さんやお母さんに言ってみたら?」
からかうように言う葉那香に対し、雅は心底嫌そうな顔をした。
「無理無理。うちの親にそんなこと言ったら、気でも触れたかと思われるわ。だいたい、最近親父の様子がさらにおかしくてさ」
雅の言葉に、葉那香は少し真顔になった。
「おかしいって?」
「うん。なんかずっとコソコソしてるし、家でもやたらピリピリしてて……ただでさえウザいのに、さらにウザさが増してるの。この間なんか、お母さんが話しかけても生返事だし」
「そっか……」
葉那香は優しく相槌を打った。
雅は父親の泥臭い仕事を嫌い、「親父が嫌い」と公言してはばからないが、こうして誰よりも父親の些細な異変に気づいている。反発しながらも、心の奥底では無意識のうちに父親の様子を気に留めていた。
(おじさん、何か悩み事でもあるのかな……)
葉那香は、小料理屋で見たあの封を切られていないワインボトルと、隼人のぶっきらぼうだが温かい顔を思い浮かべた。
「まあ、どうせ仕事のことでイライラしてるだけでしょ。ほんと、ヤダヤダ」
雅はため息をつきながら、潮風にストレートロングの髪を揺らした。
「雅は素直じゃないなぁ」
「ホント無理。あの人、昭和の作業場で時計が止まってる人種じゃん。生きてる世界が違いすぎるの」
「そうかなぁ。その昭和っぽい空気感、私はすごく味があって好きだけどね」
くすくすと笑い合いながら、二人は夕日に染まる汐見野の坂道を下っていった。




