第2話 未開封のワインボトル
汐見野市の港を取り囲む古い下町、湊元町。木造の船具店や干物屋が並び、錆びたトタン屋根の路地裏を抜けた先に、ぽつりと赤提灯を下げる小料理屋「まき」がある。
引き戸を開けると、出汁のいい香りと常連客たちの賑やかな笑い声が溢れ出した。
「おう、大将!今日も寒いな!」
「いらっしゃい、原口さん。あんたの声が一番うるさいわよ」
豪快に笑いながら入ってきたのは、ダボッとした作業着姿に手ぬぐいを頭に巻いた原口工務店の代表、大工の原口辰男(52歳)だった。カウンターの中で彼をあしらったのは、店主の槙弥生(43歳)。髪を後ろですっきりとまとめ、洗いざらしの清潔な割烹着がよく似合う和風美人だ。
「いらっしゃいませー!辰男さん、今日も熱燗?」
奥から元気よく顔を出したのは、手慣れたエプロン姿の葉那香だ。
「おっ、葉那香ちゃん!今日も達者だねえ。熱燗二本頼むわ!」
「はーい!」
軽口を叩き合う二人の横で、引き戸が再び静かに開いた。
「おう。いつもの頼む」
無骨な声を返してカウンターの隅に腰を下ろしたのは、風呂上がりの隼人だった。
「おじさん!いらっしゃい。いつものお湯割りでいい?」
葉那香にとって隼人は、物心ついた頃からこの店で顔を合わせてきた、親戚のおじさんに近い距離感の存在だった。彼が来ると、店の中にい草の青臭い香りがほんのりと混ざる。
「おう、葉那香。今日も手伝いか。偉いな」
「当然でしょ!うちの看板娘なんだから。はい、お通しのふろふき大根」
「お前が作ったのか?相変わらずいい手際だ」
隼人は目尻を下げ、出された大根を美味そうに頬張った。頑固で照れ屋な職人の隼人も、幼い頃から見知っている葉那香の前では自然と顔がほころぶのだった。
葉那香もまた、幼稚園の頃に両親が離婚し、日常に父親がいない喪失感を抱えて育った身として、この無骨で不器用な「おじさん」にどこか父親の面影を重ねていた。親友の雅は『ガサガサの手がみっともない』と嫌うが、葉那香は隼人の分厚く硬い手を見るたび、家族のために働く大人の手の温かさを感じていた。
「あら、隼人さん。相変わらず美味しそうに食べるわねえ」
隣の席から上品な声をかけたのは、常連客の園田マダム(61歳)だった。夫が地元の教育委員会でお偉いさんを務めているという噂の彼女は、シルバーブロンドがかったグレーヘアに、趣味のいいストールを羽織っている。
「園田さんか。……弥生さんの飯は、いつ食っても五臓六腑に染み渡るんでね」
隼人は照れ隠しのようにぶっきらぼうに返し、運ばれてきた安い焼酎のグラスを煽った。
園田はふふっと笑うと、ふとカウンターの奥にある棚へと視線を向けた。そこには常連客のキープボトルがずらりと並んでいる。
「ねえ、ずっと気になってたんだけど。隼人さんのボトル、なんで『二本』並んでるのかしら?」
園田の言葉に、葉那香も棚を見上げた。
隼人の名前が書かれた札が掛かっているボトルは、確かに二本ある。一本は、今彼が飲んでいる見慣れた安い焼酎。そしてもう一本は、封すら開いていない少し高級そうなワインだった。
ワインのラベルには、マジックで乱暴に『莉子』とだけ殴り書きされている。
「莉子さんって、奥さんよね?あの方、お酒飲まないのに、なんでキープしてんのよ?」
園田が不思議そうに首を傾げる。
カウンターの中で包丁を動かしていた弥生の手が、ほんの少しだけ止まった。辰男も面白そうに身を乗り出す。葉那香は、隼人の横顔をそっと窺った。
隼人は手元のグラスを見つめたまま、しばらく沈黙していた。やがて、氷をカラリと鳴らして、自嘲気味に口の端を歪めた。
「……昔のバカな約束の残りカスだ」
苦々しく笑って、それ以上は語ろうとせず、再び焼酎を喉に流し込んだ。
(昔の、約束……)
葉那香は棚の上のワインボトルを見つめた。
学校では、雅から「うちの親父がさ」と文句ばかり聞かされている。けれど、お酒を飲まない奥さんの名前を殴り書きして、ずっと開けられずにいる一本のワイン。
他人の家の、大人の事情なんてよく分からない。けれど、あの埃をかぶったボトルには、雅も知らない二人の時間が、静かに眠っている気がした。
「おじさん、おかわりは?」
「……おう、頼む」
葉那香は空になったグラスを受け取ると、少しだけ優しく微笑みかけた。
この不器用な家族の時計が、いつかまた動く日が来るのだろうか。
店内に響く常連客たちの笑い声に包まれながら、葉那香は小さな祈りを胸に、新しくお湯割りを注いだ。




