第1話 家族と胸のしこり
一月上旬。三方を標高五〇〇メートルほどの険しい黒松連峰に抱かれ、西側一面が深い藍色の外海に面した汐見野市には、冷たい海風が吹き上げていた。
海へと突き出た高台の崖っぷちにある県立しおみの海風高等学校。全教室の窓から水平線が一望できるその校舎で、放課後のチャイムが鳴り響いた。
ショートボブの髪を揺らしながら、槙葉那香(17歳)は幼馴染の八木澤雅(17歳)の席へとにじり寄った。
「これはこれは、我が知己雅殿」
先ほどの古典の授業で習ったばかりの言葉を使って恭しくお辞儀をすると、雅は呆れたように笑った。
「ははっ。早速使ってるわね」
「だって格好いいじゃん、己を知る真の友、だよ?なんかこう、渋くて大人の絆!って感じがして」
「はいはい。あんたのその『渋いもの好き』、本当に筋金入りよね」
雅が呆れたように息を吐くと、葉那香は「ほら見てよ」とスマートフォンの画面を雅の前に差し出した。スクロールされる画面には、彼女が最近フォローしている海外の渋いイケオジアカウントが並んでいた。
「葉那香って本当、そういうおじさん好きよね。信じらんない」
雅は肩下まで伸びたストレートロングの髪を払いながら、心底嫌そうに鼻をしかめた。彼女の周りからは、いつもまとっているシトラスの爽やかな香水がふわりと漂う。
「うちの親父なんて、いつも青臭い畳の匂いがしてマジで無理。ガサガサの手も、指に巻いた絆創膏もみっともないし」
「えー、雅のお父さんって渋くて格好いいと思うけどな」
「どこがよ。葉那香にあげるわ、あんなの」
雅はまだ愚痴を言い足りないのか、ふうっとため息をついた。
「ねえ、この後カフェ行かない?聞いてよ、昨日もさ——」
「ごめん!今日、家の手伝いがあるから」
葉那香は両手を合わせて謝ると、雅は「そっか、じゃあまた明日ね」と軽く手を振った。
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海風が冷たく吹き抜ける『風待坂』を、葉那香は一人で下っていた。すり鉢状になった汐見野市の街並みの向こうに、冬の海が広がっている。海沿いにはテトラポッドと古びた防波堤が見え、遠くから単線鉄道のディーゼル音が響いてきた。
(雅はいつも、おじさんの文句ばっかり言うんだから)
ふふ、と口元を綻ばせながらも、葉那香の胸の奥には、ほんの少しだけ冷たいすきま風が吹いていた。
葉那香の両親は、彼女が幼稚園の頃に円満に離婚している。遠くの街で暮らす父からは、養育費やたまに誕生日のプレゼントが届く。だからこそ「たまに優しい遠くの父」を嫌いになることもできず、葉那香の日常に父親はいないという宙ぶらりんな距離感だけが横たわっていた。
(文句を言える相手がすぐそばにいるって、羨ましいんだけどな)
そんなことを思いながら、葉那香は母の待つ下町の小料理屋へと急いだ。
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同じ頃、八木澤畳店の作業場では、隼人(49歳)が分厚い畳床と向き合っていた。
短く刈り込んだ白髪交じりの頭に、無精髭の残る無骨な顔。隼人の指先には独特の巻き方をした絆創膏が巻かれており、その手のひらには硬いタコが刻まれている。
部屋の寸法を測った図面を見つめ、畳床をそのサイズに合わせて切り出していく。畳表を張る框縫いの作業では、畳床の上に畳表を載せ、シワが寄らないよう強く引っ張りながら、短い辺を裏側に折り込んで縫い付ける。長い辺の両端には畳縁を置き、太い畳針を使って畳表と一緒に畳床へ縫い止める下縫いを行う。最後に縁を裏側へ巻き込むように折り返し、角をきれいに整えてから裏側で返し縫いをして完成させる。
現代の畳屋はこれらを専用の大型ミシンで行うが、隼人は先代の教えを守って昔のやり方で製作していた。その力強くも精密な手仕事は、地域随一の熟練職人と呼ばれるにふさわしいものだった。
仕事を終え、い草の青臭い香りをまとったまま、隼人は母屋のダイニングへと足を向けた。その手には、余った畳表と畳縁で作った、家族三人分の小さな四角い座布団マットが抱えられていた。
「……ただいま」
短く声をかけながら、隼人はダイニングチェアに一枚ずつマットを置いていく。冬場の板座は冷えるだろうという、彼なりの不器用な気遣いだった。
近くの作業机に座る妻の建築家である莉子(47歳)は、建築用の縮尺定規を手に無言で図面を引いていた。シャープなショートカットに眼鏡をかけた彼女は、仕事モードに入ると周囲の音が聞こえなくなる。
「おかえりなさい」
顔を上げることなく、淡々とした声だけが返ってきた。
その冷え切った空間に、ちょうど帰宅した雅が足を踏み入れた。
「ただいま……」
雅の姿を認めると、隼人は少し照れくさそうに自分の手元を指さした。
「おう、雅。外、寒かったろ。これ……仕事場の端切れで作ったんだ。椅子が冷えるだろ。座布団代わりに敷いて使うんだ」
だが、雅は自分の席に置かれた青々とした四角いマットを見るなり、これみよがしに鼻をしかめた。
「……私はいらない。この匂い、ほんと無理」
「雅……」
雅はマットをつまみ上げると、避けるようにテーブルの端へと追いやった。
「座ったら制服に匂いが移るじゃん。丸くて可愛いクッションならともかく……お母さんのデザインみたいに自由がきかないし。畳ってただの四角形でしょ。可愛げがないし、つまらない」
雅は吐き捨てるようにそう言うと、逃げるように自室へと向かった。パタンと扉が閉まる音が響く。
隼人は娘の冷たい言葉を聞き、残された四角いマットを見つめたまま、黙って目を伏せた。
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(……昔は、あんなじゃなかったんだがな)
風呂場のタイルに響くシャワーの音を聞きながら、隼人はやり切れない思いで頭を振った。
雅がまだ小さかった頃は、仕事場のい草の上に転がっては「いい匂いがする」と笑い、分厚い父親の手を両手で握って離さなかったはずだった。それが今や、同じ屋根の下にいるというのに、まるで汚物でも見るかのように露骨に鼻をつままれる。
年頃の娘を持つ父親はみんなこんな洗礼を受けるものだと、職人仲間である大工の辰男あたりは笑い飛ばすかもしれない。だが、真正面から「ほんと無理」と拒絶された胸の痛みは、そう簡単に割り切れるものではなかった。
どう声をかければいいのかも、どう距離を測ればいいのかも分からない。まるで外国の言葉を話す見知らぬ同居人を相手にしているような途方のなさに、隼人は脱衣場で肩を落とした。
熱い湯を張った浴槽に身を沈めながら、隼人はふと自分の左胸に違和感を覚えた。
(ん……?)
左の乳頭のすぐ下に、指先で触れるものがある。硬い梅干しの種のような、小さな『しこり』だった。ここ最近、作業着への着替えの際などに、胸元に擦れるようなチクチクとした痛みを感じてはいたのだ。
(畳針を引く時に、胸筋でも痛めたか。それとも、ただの粉瘤だろう)
隼人は深く気に留めることなく、湯で流して浴槽から上がった。
着替えを済ませた隼人は、いつもの安い焼酎を飲みに、小料理屋へと向かう準備をした。
「ちょっと、出かけてくる」
玄関先で声をかけると、ダイニングから莉子の声がした。
「気を付けて、遅くならないでね」
その声には妻としての最低限の気遣いが含まれていたが、リビングを覗き込むと、彼女の視線はやはり図面に固定されたままだった。
「ああ。……行ってくる」
ぶっきらぼうに返し、隼人は家を出た。冷たい夜風が火照った体に当たり、彼を少しだけ身震いさせた。




