第36話 永遠の絆
二月中旬。手作りの卒業式と温かい乾杯が終わった直後の、総合病院の特別室。
冷たいリノリウムの上に敷き詰められた『畳のゴザ』から立ち上るい草の香りが、病室の空気をどこまでも優しく包み込んでいた。
「大将、今日は本当によかったな」
大工の辰男が、目尻の涙を乱暴に拭いながら、ベッドの上の隼人に向かって豪快に笑いかけた。
「……ああ。お前さんが立派なステージを作ってくれたおかげだ。ありがとな、棟梁」
隼人が酸素マスク越しに目を細めると、辰男は照れくさそうに頭を掻いた。
「俺は木枠を組んだだけだ。……無理すんなよ。また顔出すからな」
「大将、ゆっくり休んでね」
小料理屋の女将である弥生も温かい声をかけ、園田マダムと校長も「本当におめでとうございます」と深く頭を下げる。
主治医の神保も、隼人の穏やかな表情を見て安堵の微笑みを浮かべると、汐見野の人々と共に静かに病室を後にした。
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賑やかだった大人たちが退室し、特別室には静寂が戻った。
残されたのは、ベッドで横たわる隼人と、傍らに立つ妻の莉子、そして少し離れて立つ制服姿の雅と、それを見守る葉那香だけだった。
「雅」
隼人が、ひどく掠れた、けれど力強い声で娘を呼んだ。
雅は、両手に校長から受け取った本物の卒業証書と、母が手渡してくれた大学の合格通知を抱えながら、ゆっくりと父のベッドへと近づいた。
隼人は、無骨で痩せ細った手を力なく伸ばし、娘の頭をポンと撫でた。
「……立派な建築家になって、いい家を建てろよ」
それは、死の淵に立つ職人の父から、これから新しい未来へと羽ばたこうとしている娘へ送る、万感の思いを込めた激励だった。
「お父さん……っ」
その温かい言葉と手の感触に、雅の中で張り詰めていた感情の糸が完全に切れた。
雅は手にした証書をゴザの上にそっと置くと、ベッドに身を乗り出し、父の痩せた胸にしっかりと抱きついた。
長年、手が痛い、匂いが臭いと嫌悪し、避けてきた大きな背中。けれど今、その腕の中は誰よりも力強く、深い愛情に満ちている。
「……絶対に、お父さんの畳に負けないくらい温かい空間を作るから」
雅は、父の胸に顔を埋め、涙ながらに力強く言葉を返した。
ただ綺麗なだけの建物じゃない。人の心に寄り添い、冷え切った体を包み込むような、父の畳のような空間を作る。「立派な建築家になって、いい家を建てろよ」という隼人の言葉に対する、娘からの決意のアンサーだった。
「ああ。……楽しみにしてるぞ」
隼人は、娘の背中を愛おしそうに撫でた。
やがて、雅が涙を拭いながら身体を離すと、隼人は「ちょっと待ってろ」とベッドの枕元に手を伸ばした。
そして、隠すように置いてあった小さな紙袋を引き寄せ、雅の前に差し出した。
「ほら。……俺からの、卒業祝いだ」
「お祝い……?」
雅が不思議そうに紙袋を受け取り、中を覗き込む。
そこに入っていたものを見た瞬間、雅は小さく息を呑み、目を見開いた。
袋から取り出されたのは、い草を精緻に編み上げて作られた『丸みを帯びた小さなクマのぬいぐるみ(テディベア)』だった。
本来、真っ直ぐな植物であるい草を使って、これほど立体的で柔らかな曲線を表現することがどれほど難しいか。
(……これ、お父さんが編んだの……?)
雅は震える手で、そのい草のテディベアを受け取った。ほのかに漂う新しいい草の青臭い香りが、雅の鼻腔をくすぐる。
「お前、昔『畳はただの四角で可愛げがない』って言ってたろ」
隼人は、酸素マスクの奥で少し照れくさそうに笑った。
「……ガキの頃好きだった人形も、今集めてる洒落たインテリアも、四角ばっかりじゃねえからな。意地になって、い草で丸いもんを作ってやったよ」
病の激しい痛みと呼吸の苦しさの中、仕事場でたった一人、咳き込みながらこの複雑な立体を編み上げている父の姿が、雅の脳裏に鮮明に浮かび上がった。
その時、隣に立っていた莉子の目から、ツーッと静かな涙がこぼれ落ちた。
(あなたって人は……)
合理主義で、建築の構造計算を完璧にこなす莉子だからこそ、その小さなテディベアを見た瞬間にすべてを理解していた。
硬いい草を使い、手作業だけでこれほど精緻な丸みを帯びた立体を編み上げる。それは、並大抵の技術では不可能だ。痛む身体に鞭を打ち、指先から血を滲ませながら、ただ娘の笑顔を見るためだけに命を削って編み上げたのだ。
冷徹に仕事を優先してきた莉子だったが、夫の凄まじい職人としての執念と、途方もなく不器用で深い愛情を前に、声も出せずにただ感涙を流し続けていた。
「立派な建築家になって、いい家を建てろ」
隼人は、泣き出しそうな娘の顔を見つめ、優しく語りかけた。
「その洒落た空間の片隅にでも、こいつを飾ってくれたら……それで十分だ」
昔気質で照れ屋な職人が紡いだ、精一杯の言葉。
雅は、い草のテディベアを胸に強く抱きしめ、首を横に振った。
「……ううん、片隅なんかじゃない!」
ポロポロと涙を流しながら、雅は真っ直ぐに父を見た。
「私が作る空間の、一番目立つ特等席に置くから。……お父さんのい草は、どんな形でも世界一温かいよ」
その言葉を聞いた隼人は、満足そうに深く息を吐き、目を閉じた。
い草の香りに包まれた病室で、反発し合っていた父と娘の心は、決して解けることのない強い絆で、完全に結び合わされていた。




