第37話 もう一人の娘への手紙
賑やかだった大人たちが退出し、病室には家族と葉那香だけが残された。
雅と莉子は協力してござを丸めて帰り支度をしている。
やがて、部屋の隅で進行役を終えてホッと息をついていた葉那香と目が合うと、隼人は少しだけ首を動かし、自分の病床のそばへと来るように小さく手招きをした。
「おじさん、お疲れ様。すごくいい式だったね」
葉那香が足音を忍ばせて歩み寄り、小声で微笑みかける。
隼人はゆっくりと頷くと、布団の下に忍ばせていた手を動かし、ゴソゴソと何かを取り出した。それは、一通の少し膨らみのある封筒だった。
昔気質で照れ屋な隼人は、誰にも見られないようにこっそりと葉那香の手の中へその封筒を押し付けた。
「……雅には、内緒だぞ」
隼人は、掠れた声の中に悪戯っぽい響きを交えて笑った。
「お前には、散々迷惑をかけたし、世話にもなったからな。……家に帰ってから、読んでくれ」
そう言うと、隼人は痩せ細ってしまった大きな手をゆっくりと持ち上げ、幼い頃にそうしてくれた時のように、葉那香のショートボブの頭をポンと優しく撫でた。
その節くれだった手のひらの感触は、葉那香が幼い頃からずっと記憶の片隅で温め続けてきた、無骨で不器用な大人の温もりそのものだった。
彼が葉那香を、ただの娘の親友としてではなく、「もう一人の娘」として深く慈しんでくれていることが、その撫で方から痛いほどに伝わってくる。
「……うん。わかった。ありがとう、おじさん」
葉那香は、渡された手紙を両手でギュッと胸の前に抱きしめ、涙を堪えるように深く頷いた。
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その日の夜。
汐見野を冷たい冬の海風が吹き抜ける中、湊元町の路地裏にある小料理屋「まき」の二階。
自室に戻った葉那香は、机の前に座って受け取った封筒をそっと取り出した。
ハサミを使って丁寧に封を切り、中に折りたたまれた便箋を開く。
そこに並んでいた文字は、長年の職人仕事で作られたタコのある手と、病気による痛みを堪えるように書かれた「力強いけれど微かに震えた字」だった。
葉那香は、その文字を一つ一つ、噛み締めるように目で追った。
『葉那香へ。
お前には、感謝してもしきれねえ。
意地を張って逃げ出そうとした俺を怒鳴りつけてくれたのも、娘と話すきっかけをくれたのも、全部お前だ。』
手紙の冒頭を読んだだけで、葉那香の視界はあっという間に涙で歪んだ。
『雅は不器用で、素直じゃねえから、お前にひどいことも言っただろう。
だがな、お前は決して赤の他人なんかじゃねえ。俺にとってもう一人の娘みたいな、かけがえのない恩人だ。』
「……おじさんっ」
葉那香の目から、大粒の涙が便箋の上にポタリと落ちた。
かつて雅に「他人のくせに家族面しないで」「お父さんがいない穴埋めにしないで」と激しく拒絶された記憶。
幼稚園の頃に両親が離婚し、日常に父親がいないという喪失感を抱えて育ってきた自分にとって、その言葉は深く鋭く胸を抉るものだった。自分の優しさは、ただ父親代わりが欲しかっただけのエゴだったのではないかと一人で泣いた夜もあった。
しかし、隼人は手紙の中で、その傷を何よりも優しく、確かな言葉で包み込んでくれていた。
『昔の歴史書を読んでると、相手の足りねえところや愚かさまで全部飲み込んで信じ抜く、本物の友の話が出てくる。あいつのみっともない意地っ張りも、情けねえ弱さも、全部知り尽くした上で手を離さなかったお前は、あいつにとって生涯ただ一人の『知己』だ。』
手紙の文字が、涙でぼやけていく。
父という存在から、無条件に全肯定され、頼られた瞬間だった。
父親がいないという寂しさを抱えながらも、持ち前の明るさとお節介で周囲を照らそうとしてきた葉那香。彼女の胸の奥底にずっと空いていた見えない穴は、今、これ以上ないほどの絶対的な温かさで完全に満たされていくのを感じていた。
「……ありがとう、おじさん。私、ずっと雅の親友でいるからね」
葉那香は震える声で呟き、視界を滲ませる涙を手の甲で乱暴に拭った。
その拍子だった。
便箋を取り出した後も、まだ少し膨らみを持っていた封筒に手が当たり、机の上に倒れた。
ポロッと、中からコロンとした小さなものが転がり出てきた。
「え……?」
涙に濡れた目でそれを見つめ、葉那香は不思議そうに瞬きをした。
それは、手のひらにすっぽりと収まるほどの、見覚えのある小さな布の包みだった。
窓の外では容赦のない冬の海風が吹き荒れていたが、涙を流す葉那香の心の中には、もうすぐ訪れる春を思わせるような、穏やかで力強い光がいつまでも灯り続けていた。




