新しい朝に吹く風(前半)
第10章:新しい朝に吹く風(前半)
月曜日の午前十時。オフィスを流れる空気はいつもと同じはずなのに、紗季の目にはすべてが新しく塗り替えられたかのように映っていた。
デスクに置かれたコーヒーの湯気、飛び交う電話の音、窓から差し込む冬の柔らかな光。その一つひとつが、自分の地層を構成する新しい層として、静かに積み重なっていくのを感じる。
紗季は、ノートPCに向かいながら、ふと自分の指先を見つめた。
先週まで、この指先は常にスマートフォンの画面を求め、届かない連絡に震えていた。けれど今は、キーボードを叩くリズムに迷いはない。二十八歳という年齢の重みに怯え、誰かに未来を委ねようとしていた自分は、もうここにはいなかった。
(時間は、積み重なっていく地層……)
あの日、公園で出会った女性の言葉が、紗季の心の中で温かな灯火となり続けている。
拓真と過ごした二年間。それは「無駄」でも「喪失」でもなく、今の自分を支える強固な基盤なのだ。彼を愛し、悩み抜き、そして自分の足で歩き出すことを選んだ。そのプロセスすべてが、紗季という女性に、二十六歳の頃にはなかった「深み」を与えていた。
「佐藤さん、この修正案……これで進めても大丈夫でしょうか?」
後輩の里奈が、少し緊張した面持ちで資料を差し出してきた。紗季は資料に目を通し、穏やかな、けれど力強い笑みを浮かべた。
「ええ、いい視点ね。でも、ここをもっと『使う人の日常』に寄り添った表現に変えてみない? 派手さはなくても、長く愛されるような言葉に」
「……はい! ありがとうございます、佐藤さん」
里奈が去り際、ぼそりと呟いた。
「なんだか今日の佐藤さん、すごく……澄んで見えます。かっこいいです」
かっこいい、という言葉。それが今の紗季には、どんな着飾った賛辞よりも嬉しかった。
誰かの「恋人」であることで自分を定義しようとしていた頃よりも、今、自分の力で仕事に向き合い、後輩を導いている自分の方が、ずっと自分らしいと感じられた。
地層の一部になった記憶
午後になり、外回りの準備をしていると、バッグの底でスマートフォンが震えた。
一瞬だけ、かつての反射的な「期待」が胸をかすめる。けれど、画面を確認するその手は、もう震えていなかった。
通知は、仕事関係のメールだった。
紗季はそれを手際よく処理し、画面に映る自分の顔をそっと見つめた。
コーラルピンクのリップ。あの日、公園で決意した色。それは、ただ自分を飾るためではなく、前を向いて生きる自分への「勲章」のようだった。
拓真のことは、もう「痛み」ではなかった。
彼は仙台で、彼の人生を選んだ。私は東京で、私の人生を耕していく。
二人の道が交わっていた二年間は、確かに幸福だった。その事実に嘘はない。思い出の小箱を仙台のカフェに置いてきたのは、彼を否定したからではなく、その思い出を「過去」という名の美しい地層として、自分の中に定着させるための儀式だったのだ。
ふと、視線の先に航平がいた。
彼はクライアントとの電話を終え、受話器を置いたところだった。
紗季と目が合うと、彼は少しだけ驚いたように目を見開き、それから、いたずらっ子のような懐かしい笑顔を浮かべた。
航平は、ずっと待っていてくれた。
私が拓真という呪縛から解き放たれ、自分の足で立ち上がるその瞬間を。
彼がくれた優しさは、弱った私への同情ではなく、私の内側にある強さを信じてくれていたからこそのエールだったのだと、今ならはっきりとわかる。
(……瀬戸君。私、もう大丈夫だよ)
心の中で、誰に言うでもなく呟く。
寂しさを埋めるための「代わり」としてではなく、対等な一人の人間として、彼と向き合う準備が整っていた。
「今」という時間を愛するために
夕暮れ時。
オフィスビルの窓から見える空は、燃えるような茜色から、深い藍色へと移り変わろうとしていた。
かつてはこの時間が嫌いだった。一日の終わり、一人で帰る部屋、届かないメッセージ。すべてが孤独を強調する装置に見えていた。
けれど、今の紗季には、この夕闇さえも美しく思えた。
今日という一日をやり遂げた充実感。そして、これから始まる新しい夜への予感。
彼女は、デスクの上の私物を片付け、バッグを肩にかけた。
スマートフォンを取り出し、航平にチャットを送る。
『お疲れ様。仕事、一段落したよ。……お店、どこに行くかもう決めてる?』
送信ボタンを押すと同時に、背後から足音が聞こえた。
「ちょうど今、僕も送ろうとしてたところです」
振り返ると、航平がコートを手に立っていた。
オフィスを出る人々の中で、二人の間には、昨日までの気まずさや遠慮は微塵もなかった。
「今日は、紗季さんの『お疲れ様会』ですから。……少しだけ贅沢なところに予約しちゃいました」
「ふふ、楽しみ。私、今日すごくお腹空いてるの」
笑い合いながら、二人はエレベーターへと向かった。
二十八歳の冬。
失ったものはあまりにも大きかったけれど、その代わりに手に入れたのは、何物にも代えがたい「自分自身への信頼」だった。
エレベーターのドアが閉まり、下降していく感覚。
それは、地層の底へと沈むのではなく、新しい土壌の上へ、軽やかに着地するための下降だった。
砂時計の砂は、今、新しく一粒ずつ、輝きながら落ち始めている。
紗季は、隣を歩く航平の横顔を、真っ直ぐに見つめた。
新しい朝に吹く風は、すでに、彼女の心の中に心地よく吹き抜けていた。




