表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三月の砂時計:届かない声と、隣にある温度  作者: 久遠 睦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
21/21

新しい朝に吹く風(後半)

第10章:新しい朝に吹く風(後半)


 東京・丸の内のビル群を抜けた先にある、少し路地に入ったビストロ。

 重厚な木の扉を開けると、オレンジ色の柔らかな照明と、香ばしいバターの香りが、冬の寒さにこわばっていた紗季の肩を優しく解きほぐした。

 案内されたのは、窓際の小さなテーブル席。

 向かい側に座る航平は、仕事中のシャツの袖を少し捲り、いつもの穏やかな、けれどどこか真剣な眼差しで紗季を見つめていた。

「……お疲れ様でした。改めて、乾杯しましょうか」

 差し出されたシャンパングラス。立ち上る細かな泡が、店内の光を反射して宝石のように瞬いている。

「乾杯。……ありがとう、瀬戸君」

 グラスが触れ合う、小さく澄んだ音。

 一口含んだ冷たい泡が、喉を通り、胃の腑を温めていく。それは、仙台で飲み干せなかったあの冷めきったコーヒーとは正反対の、今の自分が「生きている」ことを祝福する温度だった。

「なぜ、私だったの?」

 前菜を楽しみながら、会話はとりとめのない仕事の話から、次第に二人の核心へと近づいていった。

 紗季は、ずっと胸の中にあった問いを、ようやく口にすることに決めた。今の自分なら、その答えを正しく受け止められる確信があったからだ。

「ねえ、瀬戸君。……ずっと聞きたかったことがあるの」

「なんですか?」

「瀬戸君は、いつから……私のことを見ていてくれたの? 他にもたくさん、可愛くて素直な女の子、会社にだっているじゃない」

 航平はフォークを置き、少しだけ照れたように視線を落とした。それから、意を決したように真っ直ぐ紗季の瞳を見つめ返した。

「いつから、か。……たぶん、一年半くらい前、紗季さんが大きなプロジェクトのリーダーを任されて、深夜まで一人で残っていた時だと思います」

「えっ……そんな前から?」

「はい。あの時、紗季さんはボロボロになりながらも、決して誰かのせいにしなかった。デスクに突っ伏して少しだけ眠った後、起きた瞬間に、鏡も見ないで髪をサッと結び直して、またモニターに向かったんです。その横顔が……。なんて言えばいいのかな、悲しいくらいに綺麗で、強かった」

 航平の声は、静かに、けれど深く響いた。

「でもね、その一方で、時折届くスマートフォンからの通知を見て、一瞬だけ少女のような、不安そうな顔をする。……それを見て、僕は確信したんです。この人は、遠くの誰かを想って、自分を削りながら戦っているんだって。……その誠実さに、僕は惹かれたんです。同時に、その誠実さが、いつかあなたを壊してしまうんじゃないかって、勝手に心配してました」

 紗季は息を呑んだ。

 彼が見ていたのは、着飾った自分でも、仕事ができる自分でもなかった。

 拓真との関係に苦しみ、それでも自分を律しようともがいていた、最も醜くて、最も懸命だった自分の「欠片」だったのだ。

「仙台に行く紗季さんの背中を見るたびに、僕は祈ってました。あなたが笑って帰ってきてほしい。もし笑えないなら、僕がその隣にいたい。……だから、昨日、東京駅で一通のメッセージをくれた時、僕は悲しかったけれど、どこかで安心もしたんです。あ、この人は、ちゃんと自分の力で孤独を選ぼうとしているんだ、って」

自分を、地層を、愛するために

 航平の言葉は、紗季の心に空いていた最後の穴を、温かな光で満たしていった。

 誰かに必要とされることの喜び。けれど、それ以上に「自分の生き方」を肯定されることの尊さ。

「ありがとう……。瀬戸君、私ね、あの日公園で、不思議な女性に会ったの」

 紗季は、公園での出会いと、その女性が教えてくれた「地層」の話を、ゆっくりと航平に伝えた。

 拓真との二年間が、無駄ではなく、自分を支える大切な地層になったこと。そして、これからは誰かのための自分ではなく、自分自身を愛するために生きていきたいという決意を。

「だから……瀬戸君。今の私は、すぐに誰かの隣に寄り添うことはできないかもしれない。二十八歳という年齢に焦って、また誰かに自分を預けてしまったら、私はきっと同じ間違いを繰り返す。……私は、私であることをもっと大事にしたい。自分の足でしっかり立って、自分の地層を、もっと豊かにしていきたいの」

 航平は、遮ることなく最後まで聞き終えると、深く、力強く頷いた。

「わかってます。……というか、そんな紗季さんだから、好きになったんです。いきなり恋人になってほしいなんて、言いません。そんな風にあなたを急かすのは、それこそ僕のわがままだから」

 彼はグラスを置き、テーブル越しに紗季の手の近くに、自分の手をそっと置いた。触れそうで、触れない距離。

「でも、これだけは言わせてください。僕はこれからも、あなたの隣にいます。同僚として、同志として、あるいは……あなたを一番近くで見守る一人の男として。……あなたが自分を愛せるようになるまで、僕もあなたのことを、僕のペースで愛し続けます。いつか、あなたの地層の上に、僕という層が重なってもいいと思える日まで」

 紗季の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

 それは、悲しみでも絶望でもない。自分の未来が、今、新しく拓けたことを祝福する涙だった。

新しい朝に吹く風

 ビストロを出ると、夜の東京は凛とした寒さに包まれていた。

 けれど、街灯の光に照らされたアスファルトは、どこか明るい未来へと続いているように見えた。

「送りますよ。駅まで」

「……うん。ありがとう」

 二人は、並んで歩き出した。

 かつての仙台での歩幅のズレはない。航平は、紗季が呼吸を整えるように歩くそのリズムを、自然に汲み取ってくれている。

 駅の改札の前で、二人は足を止めた。

「瀬戸君。……今日、本当に楽しかった。また明日、会社でね」

「はい。また明日」

 航平は、一度だけ紗季の肩をポン、と軽く叩いた。

 それは、かつて拓真が別れ際に置いた「拒絶」の手ではなく、「応援」と「信頼」を込めた温かな感触だった。

 改札を抜け、ホームへと続くエスカレーターに乗る。

 紗季は、バッグの中からスマートフォンを取り出した。

 ロック画面を解除しても、そこにはもう、震えるような不安はない。

 彼女は、カメラアプリを立ち上げ、夜のプラットホームに吹き込んでくる、透明な冬の風を、一枚の写真に収めた。

(……二十八歳。私の物語は、ここから始まる)

 砂時計の砂は、もう落ちるのをやめていない。

 一粒一粒が、新しい経験となり、新しい感情となり、彼女の足元に積もっていく。

 それは、誰にも奪うことのできない、彼女だけの美しい「地層」だ。

 電車が滑り込んでくる。

 ドアが開くと同時に、彼女は迷いのない足取りで中へと踏み出した。

 窓の外、夜の東京の光が加速していく。

 その光の数だけ、誰かの地層があり、誰かの愛がある。

 

 紗季は、窓硝子に映る自分の姿を真っ直ぐに見つめた。

 コーラルピンクの唇が、小さく、けれど確かに、「大丈夫」という形に動いた。

 新しい朝に吹く風は、今、彼女の未来を鮮やかに連れてこようとしている。

 彼女はもう、二度と俯くことはない。

 積み重なっていく時間とともに、彼女はもっと強く、もっとしなやかに、自分という花を咲かせていくのだろう。

 砂時計の最後の一粒が落ちたあと、始まったのは、

 終わりのない、輝かしい「今」だった。


【完】


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ