新しい朝に吹く風(後半)
第10章:新しい朝に吹く風(後半)
東京・丸の内のビル群を抜けた先にある、少し路地に入ったビストロ。
重厚な木の扉を開けると、オレンジ色の柔らかな照明と、香ばしいバターの香りが、冬の寒さにこわばっていた紗季の肩を優しく解きほぐした。
案内されたのは、窓際の小さなテーブル席。
向かい側に座る航平は、仕事中のシャツの袖を少し捲り、いつもの穏やかな、けれどどこか真剣な眼差しで紗季を見つめていた。
「……お疲れ様でした。改めて、乾杯しましょうか」
差し出されたシャンパングラス。立ち上る細かな泡が、店内の光を反射して宝石のように瞬いている。
「乾杯。……ありがとう、瀬戸君」
グラスが触れ合う、小さく澄んだ音。
一口含んだ冷たい泡が、喉を通り、胃の腑を温めていく。それは、仙台で飲み干せなかったあの冷めきったコーヒーとは正反対の、今の自分が「生きている」ことを祝福する温度だった。
「なぜ、私だったの?」
前菜を楽しみながら、会話はとりとめのない仕事の話から、次第に二人の核心へと近づいていった。
紗季は、ずっと胸の中にあった問いを、ようやく口にすることに決めた。今の自分なら、その答えを正しく受け止められる確信があったからだ。
「ねえ、瀬戸君。……ずっと聞きたかったことがあるの」
「なんですか?」
「瀬戸君は、いつから……私のことを見ていてくれたの? 他にもたくさん、可愛くて素直な女の子、会社にだっているじゃない」
航平はフォークを置き、少しだけ照れたように視線を落とした。それから、意を決したように真っ直ぐ紗季の瞳を見つめ返した。
「いつから、か。……たぶん、一年半くらい前、紗季さんが大きなプロジェクトのリーダーを任されて、深夜まで一人で残っていた時だと思います」
「えっ……そんな前から?」
「はい。あの時、紗季さんはボロボロになりながらも、決して誰かのせいにしなかった。デスクに突っ伏して少しだけ眠った後、起きた瞬間に、鏡も見ないで髪をサッと結び直して、またモニターに向かったんです。その横顔が……。なんて言えばいいのかな、悲しいくらいに綺麗で、強かった」
航平の声は、静かに、けれど深く響いた。
「でもね、その一方で、時折届くスマートフォンからの通知を見て、一瞬だけ少女のような、不安そうな顔をする。……それを見て、僕は確信したんです。この人は、遠くの誰かを想って、自分を削りながら戦っているんだって。……その誠実さに、僕は惹かれたんです。同時に、その誠実さが、いつかあなたを壊してしまうんじゃないかって、勝手に心配してました」
紗季は息を呑んだ。
彼が見ていたのは、着飾った自分でも、仕事ができる自分でもなかった。
拓真との関係に苦しみ、それでも自分を律しようともがいていた、最も醜くて、最も懸命だった自分の「欠片」だったのだ。
「仙台に行く紗季さんの背中を見るたびに、僕は祈ってました。あなたが笑って帰ってきてほしい。もし笑えないなら、僕がその隣にいたい。……だから、昨日、東京駅で一通のメッセージをくれた時、僕は悲しかったけれど、どこかで安心もしたんです。あ、この人は、ちゃんと自分の力で孤独を選ぼうとしているんだ、って」
自分を、地層を、愛するために
航平の言葉は、紗季の心に空いていた最後の穴を、温かな光で満たしていった。
誰かに必要とされることの喜び。けれど、それ以上に「自分の生き方」を肯定されることの尊さ。
「ありがとう……。瀬戸君、私ね、あの日公園で、不思議な女性に会ったの」
紗季は、公園での出会いと、その女性が教えてくれた「地層」の話を、ゆっくりと航平に伝えた。
拓真との二年間が、無駄ではなく、自分を支える大切な地層になったこと。そして、これからは誰かのための自分ではなく、自分自身を愛するために生きていきたいという決意を。
「だから……瀬戸君。今の私は、すぐに誰かの隣に寄り添うことはできないかもしれない。二十八歳という年齢に焦って、また誰かに自分を預けてしまったら、私はきっと同じ間違いを繰り返す。……私は、私であることをもっと大事にしたい。自分の足でしっかり立って、自分の地層を、もっと豊かにしていきたいの」
航平は、遮ることなく最後まで聞き終えると、深く、力強く頷いた。
「わかってます。……というか、そんな紗季さんだから、好きになったんです。いきなり恋人になってほしいなんて、言いません。そんな風にあなたを急かすのは、それこそ僕のわがままだから」
彼はグラスを置き、テーブル越しに紗季の手の近くに、自分の手をそっと置いた。触れそうで、触れない距離。
「でも、これだけは言わせてください。僕はこれからも、あなたの隣にいます。同僚として、同志として、あるいは……あなたを一番近くで見守る一人の男として。……あなたが自分を愛せるようになるまで、僕もあなたのことを、僕のペースで愛し続けます。いつか、あなたの地層の上に、僕という層が重なってもいいと思える日まで」
紗季の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは、悲しみでも絶望でもない。自分の未来が、今、新しく拓けたことを祝福する涙だった。
新しい朝に吹く風
ビストロを出ると、夜の東京は凛とした寒さに包まれていた。
けれど、街灯の光に照らされたアスファルトは、どこか明るい未来へと続いているように見えた。
「送りますよ。駅まで」
「……うん。ありがとう」
二人は、並んで歩き出した。
かつての仙台での歩幅のズレはない。航平は、紗季が呼吸を整えるように歩くそのリズムを、自然に汲み取ってくれている。
駅の改札の前で、二人は足を止めた。
「瀬戸君。……今日、本当に楽しかった。また明日、会社でね」
「はい。また明日」
航平は、一度だけ紗季の肩をポン、と軽く叩いた。
それは、かつて拓真が別れ際に置いた「拒絶」の手ではなく、「応援」と「信頼」を込めた温かな感触だった。
改札を抜け、ホームへと続くエスカレーターに乗る。
紗季は、バッグの中からスマートフォンを取り出した。
ロック画面を解除しても、そこにはもう、震えるような不安はない。
彼女は、カメラアプリを立ち上げ、夜のプラットホームに吹き込んでくる、透明な冬の風を、一枚の写真に収めた。
(……二十八歳。私の物語は、ここから始まる)
砂時計の砂は、もう落ちるのをやめていない。
一粒一粒が、新しい経験となり、新しい感情となり、彼女の足元に積もっていく。
それは、誰にも奪うことのできない、彼女だけの美しい「地層」だ。
電車が滑り込んでくる。
ドアが開くと同時に、彼女は迷いのない足取りで中へと踏み出した。
窓の外、夜の東京の光が加速していく。
その光の数だけ、誰かの地層があり、誰かの愛がある。
紗季は、窓硝子に映る自分の姿を真っ直ぐに見つめた。
コーラルピンクの唇が、小さく、けれど確かに、「大丈夫」という形に動いた。
新しい朝に吹く風は、今、彼女の未来を鮮やかに連れてこようとしている。
彼女はもう、二度と俯くことはない。
積み重なっていく時間とともに、彼女はもっと強く、もっとしなやかに、自分という花を咲かせていくのだろう。
砂時計の最後の一粒が落ちたあと、始まったのは、
終わりのない、輝かしい「今」だった。
【完】




