砂時計の最後の一粒(後半)
第9章:砂時計の最後の一粒(後半)
冬の午後の光は、次第にその色を黄金色へと変え始めていた。
公園の片隅、背の高いクヌギの木の影が長く伸びるベンチの数列先に、一人の女性が座っていた。
紗季の目を引いたのは、その女性が纏っている、言葉にできないほど凛とした空気だった。
年齢は、四十代半ばか、あるいは五十代に入っているだろうか。艶やかな黒髪を無造作にまとめ、上質なチャコールグレーのカシミアコートに身を包んでいる。彼女は周囲の喧騒を一切気にする様子もなく、膝の上に広げたハードカバーの本を静かに読み進めていた。
(……綺麗だな)
それは、若さや華やかさとは違う、自分という人間を完全に掌握している者だけが持つ、深い静寂のような美しさだった。
ふと、女性が顔を上げた。夕陽の眩しさに目を細め、彼女は本を閉じると、ふうっと小さく白い息を吐いた。そして、視線に気づいたのか、少し離れた場所に座る紗季の方へ、穏やかな微笑みを向けたのだ。
「いい光ですね、今日は」
鈴を転がすような、落ち着いた声だった。紗季は一瞬戸惑い、けれど引き込まれるように頷いた。
「……はい。とても、綺麗です」
「冬の太陽は、すぐに沈んでしまいますから。こうして光を浴びているだけで、何か大切なものを分けてもらっているような気がします」
女性はそう言うと、立ち上がってコートの裾を整えた。彼女の指先には、派手な装飾はない。ただ、使い込まれた革の手袋が、彼女のこれまでの人生を物語るように、その手に馴染んでいた。
「あの……」
紗季は思わず声をかけていた。
「……怖くないですか? 一人でいることや、時間が過ぎていくことが」
唐突で、不躾な問い。けれど女性は、驚く風もなく、少しだけ小首を傾げて笑った。
「時間は、奪われるものではなくて、積み重なっていくものですよ。失ったように見えても、それはすべて『あなた』という地層の一部になります。……昔、私が今のあなたくらいの年齢だった頃、私も大きなものを失ったけれど、今思えば、あの空白があったから、今の私があるの。……大丈夫。光を信じていれば、明日にはまた新しい太陽が昇りますから」
女性は優しく一礼し、軽やかな足取りで公園の出口へと歩いていった。
その後ろ姿を見送りながら、紗季の胸の奥で、何かが音を立てて崩れ、刻一刻と新しい形へ再構築されていくのを感じた。
(積み重なっていく、地層……)
拓真と過ごした二年間。
それは無駄な投資でも、失われた空白でもなかった。私が悩み、苦しみ、新幹線で泣き、それでも誰かを愛そうとしたあの時間は、紛れもなく私の「地層」なのだ。それを否定することは、今の自分自身を否定することと同じだった。
私は、惨めじゃない。
私は、戦ってきたのだ。自分の愛を信じて、最後まで。
結果はどうあれ、その誠実さは、これからの私を支える確かな土壌になる。
デジタルの葬列、そして脱皮
帰り道、夕闇が迫る東京の街を歩きながら、紗季はスマートフォンを取り出した。
ポケットの中で、それはかつてないほど軽く感じられた。
画面を開く。拓真とのトーク画面。
かつての甘い言葉。喧嘩をした時の気まずい沈黙。そして、最後の一通の冷徹な宣告。
紗季はためらうことなく、スクロールの指を止め、設定画面を開いた。
「……さようなら」
『削除』のボタンをタップする。
二年間、一日に何度も眺めた緑色の吹き出しが、一瞬で消え去り、真っ白な空間に変わった。
アルバムの中にあった数百枚の写真も、すべてゴミ箱へ移動させる。
指先が震えることはなかった。ただ、胸の奥がスーッと涼しくなっていくような感覚だけがあった。
部屋に着くと、彼女はまず窓を全開にした。
澱んでいた空気が、冬の夜気と入れ替わる。
玄関先に放置されていたキャリーバッグを引き寄せ、中身をすべて取り出した。洗濯すべき衣類はランドリーへ。仙台で買った、もう渡すことのない自分用の小さな土産物は、迷わずゴミ箱へ。
最後の一粒まで落ちきった砂時計を、彼女は自分の手で、力強くひっくり返した。
「よし……」
彼女は、スマートフォンの連絡先を開いた。
『瀬戸 航平』。
昨日から未読のままにしていた、彼のメッセージ。
『瀬戸君。昨日はごめんね。おかげさまで、ゆっくり休めました。明日からまた、バリバリ働きます。……お疲れ様会、楽しみにしてるね』
送信。
数秒後、既読がついた。
『待ってます。明日、会社で』
その短い返信に、紗季の唇から、自分でも驚くほど自然な笑みがこぼれた。
寂しさを紛らわすためではない。彼が信じてくれた「笑っている自分」に戻るための、これは私なりの宣戦布告だった。
月曜日の朝、新しい光の中で
月曜日の朝。
目覚まし時計が鳴る前に、紗季はパチリと目を開けた。
窓の外は、雲ひとつない快晴。
彼女は鏡の前に立ち、丁寧、かつ潔くメイクを仕上げた。
今日は、隠すためのコンシーラーは必要最小限でいい。自分の肌の色を活かした、明るいトーンのファンデーション。まつ毛は上向きに上げ、唇には、昨日までの自分なら選ばなかったような、鮮やかで生命力に満ちたコーラルピンクを差した。
「……いってきます」
家を出る彼女の背筋は、ピンと伸びていた。
駅へ向かう道、通勤ラッシュの波に乗りながら、彼女は自分を取り巻く空気が昨日までとは全く違うことに気づいた。排気ガスの匂いも、誰かの肩がぶつかる感触も、すべてが「生きている日常」の一部として、愛おしく感じられる。
オフィスのフロアに入り、デスクへ向かう。
「おはようございます!」
通る声。周囲の同僚たちが、一瞬驚いたように顔を上げる。
「あ、佐藤さん。おはよう。……なんか、今日雰囲気違うね?」
「そうですか? 週末、よく眠れたからかな」
笑顔を振りまきながら、自分の席に座る。
すると、視界の端に航平の姿が見えた。
彼はコーヒーカップを片手に、パントリーから戻ってきたところだった。
二人の目が、真っ直ぐに合った。
航平は一瞬だけ驚いたように目を見開き、そして――これ以上ないほど嬉しそうに、ふっと表情を崩した。
「紗季さん。おはようございます」
「おはよう、瀬戸君。……コーヒー、私の分もある?」
冗談めかして言うと、彼は「もちろん」と頷き、自分の分を紗季のデスクに置いた。
「……最強の笑顔ですね、今日」
小さな、二人だけに聞こえる声。
紗季は、彼の淹れたコーヒーの温かさを両手で受け止めた。
「……ありがとう。瀬戸君が待っててくれたからだよ」
拓真との二年間という地層の上に、今、新しい種が芽を出そうとしていた。
二十八歳。
砂時計の砂は、これから新しく、一粒ずつ、輝く思い出を積み重ねていく。
窓から差し込む冬の光の中で、紗季は心の底から、笑った。
「さあ、仕事。頑張ろう」
キーボードを叩く彼女の指先は、もう二度と、不安で震えることはなかった。




