砂時計の最後の一粒(前半)
第9章:砂時計の最後の一粒(前半)
日曜日の午後、冬の太陽は残酷なまでに高く、明るかった。
遮光カーテンを数センチだけ開けると、そこから差し込む光が、埃の舞う部屋を無機質に暴き出していた。床に投げ出されたキャリーバッグ、脱ぎ捨てられたままのストッキング、そして、昨日まで「未来」だと思っていた男の、もう二度と鳴ることのない不在証明としてのスマートフォン。
昨夜から、一口の水分さえ摂っていなかった。喉は焼けつくように乾き、胃の奥は空腹を通り越して、ひどく冷えた重石が入っているような不快感がある。
鏡を見ることさえ億劫だった。今の自分は、きっと誰からも愛されない「廃墟」のような顔をしているだろう。
(……このまま、ここで枯れていくのを待つの?)
ふと、そんな思考が頭をよぎった。このままベッドに沈み込み、明日、月曜日の朝に「体調不良」と嘘の連絡を入れ、引きこもり続ける自分。それは、最も簡単で、最も惨めな選択肢だ。
二十八歳。人生を投げ出すには、私はまだ、多くのことを知りすぎていた。
紗季は、震える足で立ち上がり、浴室へ向かった。
熱いシャワーを浴び、拓真の匂いも、仙台の駅の冷気も、自分を責めるような罪悪感も、すべて排水溝に流し込むようにして洗い流した。
クローゼットから、あえて明るい色のニットを選び、丁寧にメイクを施す。クマをコンシーラーで消し、唇に血色を戻す。それは、世界と戦うための「武装」だった。
光の中へ
外に出ると、冷たく澄んだ空気が肺の奥まで突き刺さった。
駅前のなじみのカフェは、週末の午後を楽しむ人々で賑わっていた。
「ホットのカフェラテ。……エスプレッソショット、追加でお願いします」
注文する自分の声が、意外なほどしっかりしていることに驚く。
店員が差し出した紙コップから伝わる熱。それは、昨夜のシーツの冷たさとは正反対の、確かな「生」の温度だった。
ラテを片手に、彼女は近くにある大きな公園へと足を向けた。
そこには、昨日の出来事などこの世に存在しないかのような、平穏で眩しい日常が広がっていた。
芝生の上では、三歳くらいの男の子が、まだおぼつかない足取りでボールを追いかけている。その後ろを、若い夫婦が笑いながら追いかけていた。
「ほら、頑張れ! もうちょっと!」
父親が子供を抱き上げ、空高く放り投げる。子供の突き抜けるような笑い声が、冬の青空に吸い込まれていった。
(……ああ。世界は、こんなに普通に回っているんだ)
ベンチに腰を下ろし、紗季は熱いラテを一口飲んだ。
苦味の強いエスプレッソが、麻痺していた感覚を呼び覚ましていく。
視線を移すと、そこには手を繋いで歩く老夫婦がいた。ゆっくりと、お互いの歩幅を確かめるようにして歩く姿。その背中には、数えきれないほどの冬を共に乗り越えてきた者だけが纏う、静かな気品があった。
さらに向こうでは、女子大生と思われるグループが、スマートフォンの画面を覗き込みながら賑やかに笑い合っている。
「えー、嘘でしょ! 信じられない!」
そんな他愛もない言葉が、風に乗って運ばれてくる。
彼らの中の誰一人として、私が昨日、二年間積み上げた愛を失ったことなど知らない。
私が新幹線の中で声を殺して泣いたことも、二十八歳の冬に絶望の淵に立たされたことも、この広い公園の、誰の関心も引くことはない。
それは、寂しいことのように思えて――実は、ひどく救いのある事実だった。
悲劇のヒロインという檻
紗季は、空を見上げた。
雲ひとつない、抜けるような青。
自分は今まで、この世界の中心で「悲劇の主人公」を演じていたのではないか。
二年間尽くしたのに捨てられた可哀想な私。
年齢に焦り、未来を失った不幸な二十八歳。
そんな自分勝手なスポットライトを自分に当て、暗い部屋でうずくまっていた。
けれど、目の前の光景はどうだ。
あの子が転んでも、あの老夫婦がいつか別れを迎えても、この公園の空気は変わらず、太陽はまた明日も昇るだろう。
個人の悲しみなんて、この世界という大きなうねりの中では、水面に落ちた一滴の雨粒に過ぎない。
(私が一人で勝手に、『不幸のどん底』を演出していただけなんだ)
そう思うと、ふっと肩の力が抜けた。
落ち込んでいても、暗い顔で自分を憐れんでいても、現実は一ミリも動かない。拓真が戻ってくるわけでも、失った時間が返ってくるわけでもない。
ただ、自分の貴重な日曜日を、さらに灰色に染めるだけだ。
私は、まだ生きている。
こうして温かいコーヒーを飲み、美しい空を見上げることができる。
ふと、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
もしかして、拓真?
……いいえ、そんな期待はもう、必要なかった。
画面に映っていたのは、航平からの写真だった。
それは、彼が今いる場所なのだろうか。どこか海沿いの街の、夕暮れ前の空の写真。
『東京の空も、きっと同じくらい綺麗ですよ』
それだけの言葉。
航平は、私を「悲劇の主人公」として扱わない。
同情して泣き落とすことも、無理に励ますこともしない。
ただ、同じ空の下に私がいることを、当たり前のように肯定してくれる。
「……瀬戸君」
彼の名前を呟いたとき、紗季の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは、昨日までの絶望の涙ではなく、凍りついていた心が、太陽の光でゆっくりと溶け出した証だった。
自分を可哀想だと思うのは、もうやめよう。
二十八歳。まだ、人生の三分の一も終わっていない。
失ったものは大きいけれど、その分、私の手の中には「新しい何かが入るための空白」が生まれたのだ。
紗季は、最後の一口のラテを飲み干した。
立ち上がり、背筋を伸ばす。
公園の出口へと向かう彼女の足取りは、昨日、東京駅のホームに降り立った時よりも、ずっと確かで、力強いものになっていた。
砂時計の砂は、もうすべて落ちきった。
ならば、次は自分の手で、この時計を新しくひっくり返せばいい。
日曜日の午後の光は、彼女の背中を、優しく、そして力強く押し出していた。




