隣にある温度(後半)
第8章:隣にある温度(後半)
玄関の鍵を開ける音が、ひどく場違いなほど大きく響いた。
真っ暗なワンルームに、冷たい空気が沈殿している。紗季は明かりもつけず、キャリーバッグを玄関先に放置したまま、ふらふらと部屋の奥へ進んだ。
窓の外、遠くを走る車の走行音が微かに聞こえる。東京の夜は、持ち主を失った悲しみなどお構いなしに、淡々とその脈動を続けていた。
コートを脱ぐ気力さえない。彼女はバッグを床に落とし、そのまま吸い込まれるようにベッドへと倒れ込んだ。
(……やっと、一人になれた)
シーツの冷たさが、火照った頬に心地よい。
目を閉じると、網膜の裏側に仙台のあのカフェの光景が焼き付いている。
冷めたコーヒー。
テーブルに置き去りにした、あの木箱。
そして、最後まで一度も「ごめん」以外の言葉をくれなかった拓真の、困ったような、逃げ腰の表情。
本来なら、今すぐにでもスマートフォンを取り出し、彼との写真をすべて削除し、連絡先をブロックし、思い出の品々をゴミ袋に詰め込むべきなのだろう。そうして「過去の整理」を終えてこそ、人は次の一歩を踏み出せるのだと、どの恋愛コラムにも書いてあった。
けれど、今の紗季には、指一本動かす力も残っていなかった。
整理なんて、できない。
だって、それを始めてしまったら、この二年間が本当に「無」であったことを、自分の手で証明することになってしまうから。
二十八歳。人生の貴重な時間を、私はあの場所に捨ててきた。
その事実を突きつけられるのが怖くて、彼女は暗闇の中でただ、震える呼吸を繰り返すことしかできなかった。
沈黙と、デジタルな温もり
ポケットの中で、スマートフォンが何度か微かに震えた。
拓真からではないことは、分かっている。彼はもう、私のために通知を鳴らすことはない。
震えの主は、おそらく航平だ。
東京駅の改札で、私を待ってくれていたかもしれない彼。
紗季は、重たい腕を伸ばしてスマートフォンを手に取った。画面の光が、涙で腫れた目に刺さるように眩しい。
予想通り、航平からのメッセージが届いていた。
『無事に家に着きましたか? 無理に返信はいりません。ただ、明日は日曜日ですから。好きなだけ眠って、好きなだけ自分を甘やかしてくださいね。おやすみなさい』
その文字をなぞるだけで、喉の奥が熱くなる。
彼は、私が今、どんなに無様な姿でベッドに転がっているかを見透かしているかのようだった。
拓真が「重荷」だと切り捨てた私の存在を、この人はどうして、こうも軽やかに、かつ深く抱き止めてくれるのだろう。
(瀬戸君……。ごめん。今は、ありがとうさえ言えないんだ)
紗季は返信を打つことができず、そのままスマートフォンを枕元に放り投げた。
航平の優しさに触れることは、今の彼女にとって、傷口に温かい湯をかけられるようなものだ。救われるけれど、同時に自分の「欠落」を痛烈に意識させられる。
今の自分は、愛される資格なんてない「空っぽな容器」のようだった。
長い夜の底で
深夜二時。
眠りは訪れず、ただ意識の濁流が彼女を翻弄する。
かつての拓真とのやり取りが、脈絡もなくフラッシュバックした。
「紗季、次はいつ会える?」
「仕事、頑張りすぎるなよ。俺がついてるから」
あの言葉たちは、どこで賞味期限を切らしたのだろう。
愛とは、いつから「責任」という名の毒に変わるのだろう。
二十八歳。世の中は「まだやり直せる」と言うけれど、当の本人にとっては「もう何も残っていない」と感じる絶望的な節目だ。
仕事をして、家賃を払って、たまに贅沢をして、誰かを愛して。そんな当たり前のサイクルの中に、自分だけがいない。
彼女は、メイクも落とさず、コンタクトレンズもつけたまま、乾いた瞳で天井を見つめ続けた。
整理できない思い出が、部屋の隅々から這い出してくる。
あの時買ったキャンドル。二人で選んだマグカップ。
捨てられない。けれど、使うこともできない。
部屋全体が、死んだ愛の墓標のように思えた。
日曜日の朝、訪れる「日常」
気がつけば、カーテンの隙間から、白々とした光が差し込んでいた。
日曜日の朝。
街の喧騒が、遠くでゆっくりと目覚め始める。
紗季は、鉛のように重い体を引きずりながら、ようやくベッドから這い出した。
全身が痛い。一晩中、コートを着たまま縮こまっていたせいで、体が強張っている。
鏡を見ると、そこには酷い女がいた。
目の周りは黒く滲み、肌はカサカサに荒れ、瞳からは光が失われている。
これが、二年間愛され、そして捨てられた女の終着駅。
「……ははっ」
乾いた笑いがこぼれた。
あまりの無様さに、かえって冷徹な落ち着きが戻ってくる。
彼女は洗面所へ向かい、ぬるま湯で顔を洗った。
黒い汚れが流れ落ち、少しずつ「佐藤紗季」の顔が戻ってくる。
けれど、心の中に空いた大きな穴は、冷たい水で洗っても消えはしなかった。
部屋に戻り、彼女はまだキャリーバッグが置かれたままの玄関を見つめた。
整理は、まだできない。
写真を消す勇気も、思い出を捨てる覚悟も、今の自分には一ミリも備わっていない。
けれど、窓を開けると、冬の澄んだ空気が一気に入れ替わった。
スマートフォンを手に取る。
航平のメッセージの最後に、自分の指が触れる。
(明日は、会社に行かなきゃ)
失恋したからといって、世界は止まってくれない。
月曜日になれば、また「プロフェッショナルな自分」を演じなければならない。
紗季は、クシャクシャになったコートをハンガーにかけた。
整理は、少しずつでいい。
今はただ、この日曜日の光の中で、自分が息をしていることだけを確認しようと思った。
砂時計の底に溜まった砂は、もう動かない。
けれど、時計をひっくり返すための力は、まだ彼女の指先に、微かに残っているはずだった。




