記憶にない少女
# The Bleeding Echo
記憶にない少女
図書館の時計は、二時十三分を指したまま止まっていた。
ミラは、窓から目を離せずにいた。
ガラスに映る自分は、いつもと変わらない顔をしている。目を動かせば、鏡像も同じように動く。手を上げれば、向こうの手も上がる。
何もおかしくない。
そう確かめようとするほど、さっき見た光景が鮮明によみがえった。
泣いていた自分。
自分の背後に立つ、もう一人の自分。
そして、二人の女の間に浮かぶ黒いハート。
「……気のせい」
ミラは小さく呟いた。
そう言ってしまえば、すべてが元に戻る気がした。
「気のせいで済ませられるなら、そうした方がいいわね」
背後から声がした。
ミラは振り返った。
老婦人が、書庫へ続く扉の前に立っていた。先ほどと同じ服装で、同じ表情をしている。
まるで、一度も姿を消していなかったかのように。
「……どこにいたんですか?」
「奥よ」
「でも、さっきは……」
「さっき?」
老婦人は不思議そうに首を傾げた。
「あなた、少し疲れているんじゃない?」
ミラは口を閉じた。
この人は、知らないふりをしているのだろうか。それとも、本当に何も覚えていないのだろうか。
どちらにしても、これ以上尋ねても答えは得られない。
ミラは鞄を肩に掛けた。
「新聞の記録を見せてもらえませんか。あの屋敷について、何か残っているかもしれないから」
老婦人はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「地下の資料室に、古い地方新聞が保管されているわ。けれど、そこへ行くなら一つだけ約束して」
「何ですか?」
「自分の名前が書かれた記事を見つけても、読まないこと」
ミラは眉をひそめた。
「……私の名前?」
「ええ」
老婦人は、それ以上説明しなかった。
「階段を下りて、右側の棚を探しなさい。古い新聞は、年代順に並んでいるから」
ミラは礼を言い、地下へ続く階段に向かった。
背後で、老婦人が何かを呟いた気がした。
聞き取れなかった。
ただ、その声は、ひどく悲しそうだった。
*
地下の資料室は、図書館のほかの場所とは空気が違っていた。
窓はなく、天井の照明は薄暗い。壁際には古い新聞の束や記録帳が積まれ、紙と埃の匂いが充満している。
ミラは言われた通り、右側の棚へ向かった。
屋敷がいつから存在しているのか。それが分かれば、何か手掛かりが見つかるかもしれない。
彼女は年代を遡りながら、新聞の見出しを確認していった。
一九八九年。
一九八八年。
一九八七年。
その年の新聞に差しかかったとき、ミラの手が止まった。
小さな記事が目に入ったのだ。
**「森の近くで少女の遺体を発見」**
記事の日付は、一九八七年十月二十三日。
ミラは新聞を取り出した。
記事は短かった。
十六歳の少女、エレノア・ヴェイル。森の近くで死亡しているのが発見された。身元は確認されているものの、死亡に至った経緯には不明な点が多く、捜査が続けられている。
その下には、少女の写真が掲載されていた。
ミラは息を止めた。
写真の中の少女は、黒い髪を肩まで伸ばし、カメラをまっすぐ見つめていた。
その顔を、ミラは知っていた。
屋敷の窓辺に立っていた、あの女。
いや。
それだけではない。
写真の少女は、ミラ自身にも似ていた。
目の形。鼻筋。唇の端のわずかな癖。
偶然と言うには、あまりにもよく似ている。
ミラは記事を読み進めた。
少女は発見される前日、学校で奇妙な発言をしていたという。
『自分が二人いる』
それが、彼女の最後の言葉だったと、記事には記されていた。
ミラの指が震えた。
一人ではない。
二人。
あの屋敷にいた女たち。
黒いハート。
そして、自分。
頭の中で、ばらばらだった出来事が、一本の糸でつながり始めていた。
けれど、その糸の先に何があるのかは分からない。
ミラは別の新聞も探した。
エレノアの葬儀についての記事。
屋敷で起きた火災についての記事。
少女の死から三日後、森の奥にある屋敷で火災が発生した。現場は激しく焼損し、建物の一部が崩落。火災当時、屋敷に人がいた形跡は確認されなかった。
それだけだった。
火災の原因も、屋敷の所有者も、詳しくは書かれていない。
そして、さらに古い新聞を調べても、エレノアの名前はほとんど見つからなかった。
まるで、彼女が死んだこと以外、誰も覚えていないかのように。
ミラは最初の記事に戻った。
写真の少女を見つめる。
そのとき。
紙の上の少女が、笑った。
ミラは新聞を取り落とした。
床に落ちた紙が、乾いた音を立てる。
「……嘘」
写真の少女は、もう笑っていなかった。
元の無表情に戻っている。
ミラはしゃがみ込み、新聞を拾った。
その瞬間、すぐ後ろで紙をめくる音がした。
パラ。
誰かが、新聞を読んでいる。
ミラは振り返った。
誰もいない。
パラ。
今度は、反対側の棚から音がした。
ミラは立ち上がった。
「誰かいるの?」
返事はない。
パラ。
パラ。
パラ。
音が増えていく。
棚のあちこちで、見えない誰かが一斉に紙をめくっている。
ミラは資料室の出口へ向かった。
そのとき、足元に一枚の紙が滑り込んできた。
古いメモだった。
そこには、黒いインクで短い文章が書かれていた。
『一人目を見た者は、二人目を見る。
二人目を見た者は、何を見る?』
ミラが顔を上げると、資料室の照明が一度だけ点滅した。
暗闇。
一瞬の静寂。
そして、耳元で声がした。
「その子は、あなたじゃない」
ミラは走り出した。
階段を駆け上がり、図書館の明るい廊下へ飛び出す。
誰もいなかった。
受付にも、閲覧席にも、人影はない。
老婦人の姿さえ見つからなかった。
ミラは震える手でスマートフォンを取り出し、エリアスに電話をかけた。
呼び出し音が二回鳴ったところで、彼が出た。
『どうした?』
「エリアス……あの屋敷のこと、調べたの」
『屋敷?』
「一九八七年に、エレノア・ヴェイルっていう女の子が亡くなってる。十六歳で、私たちが見た女にそっくりなの」
電話の向こうで、沈黙が続いた。
「エリアス?」
『……その名前、もう一度言ってくれ』
「エレノア・ヴェイル」
また沈黙。
やがて、彼は低い声で言った。
『ミラ。今、どこにいる?』
「図書館だけど」
『そこから動くな。すぐに行く』
「どうして?」
彼は答えなかった。
代わりに、電話の向こうで、何かを落とすような音がした。
そして、かすかな囁き声。
『……そんなはずない』
通話が切れた。
ミラはスマートフォンを見つめた。
画面には、通話終了の表示だけが残っている。
その下に、見覚えのない通知が一つ届いていた。
差出人は、登録されていない番号。
本文は、たった一行だった。
**『エレノアは、一人ではなかった。』**
ミラは顔を上げた。
図書館の窓に、自分の姿が映っている。
その背後には、黒いドレスの女が立っていた。
女は泣いていた。
そして、その口元だけが、ゆっくりと動いた。
――思い出して。
ミラが振り返る。
誰もいない。
再び窓を見ると、女の姿も消えていた。
ただ、ガラスの表面に、指でなぞったような文字が残っていた。
**「次は、あなたの番。」**
その下に、小さく日付が浮かび上がった。
一九八七年十月二十三日。
エレノア・ヴェイルが死んだ日だった。




