■第四十九話 国は回る
それから、さらに三年が過ぎた。
王都の朝。
市場には、以前よりもはるかに多くの人が行き交っていた。
「南部から小麦が届いたぞ!」
「北部の乾燥肉も来ている!」
「隣国から香辛料が入っているぞ!」
商人たちの声が響く。
荷車が走る。
倉庫では商品の積み下ろしが行われ、街道では運送業者が忙しそうに行き交っている。
かつては、食料が足りなかった。
商品が足りなかった。
水が足りなかった。
仕事が足りなかった。
そして情報も足りなかった。
今は違う。
物が動いている。
金が動いている。
人が動いている。
情報も動いている。
王国そのものが、大きな一つの仕組みになっていた。
王宮の会議室。
昔、沙樹が資料を持ち込んだ部屋では、今日も会議が行われていた。
「北部の人口は今年も減少しています」
人口担当官が報告する。
「ただし、税収は増えています」
「人口が減っているのに?」
「鉱山の機械化と加工産業の増加です」
別の担当官が資料を示した。
「採掘量はほぼ同じですが、現地加工の割合が増えました」
「その結果?」
「製品として販売できる量が増えています」
「なるほど」
以前なら。
人口が減る。
だから衰退。
そう単純に考えていた。
しかし今では違う。
人口。
生産量。
税収。
住宅。
物流。
農地。
産業。
それぞれを分けて見る。
そして最後に全体を見る。
「では、北部は人口を無理に増やす必要はない」
「はい」
「必要なのは?」
「住宅の維持」
「学校規模の調整」
「医療体制の維持」
「物流費の削減」
「そして鉱山が縮小した場合の産業転換です」
「よし」
担当官は記録する。
会議は次の議題へ進んだ。
誰も。
沙樹を呼びに行かなかった。
一方。
内田生活工房。
「沙樹さん」
「はい」
「新しい注文です」
「どこから?」
「王国各地」
「いつものですね」
「それと」
従業員が別の書類を出す。
「隣国からです」
「また増えた?」
「はい」
「何が?」
「学校向け洗剤」
「病院向け洗浄剤」
「工場向け洗浄剤」
「家庭用石鹸」
「洗濯用洗剤」
「食器用洗浄剤」
「……増えたなあ」
沙樹は笑った。
「工場を増やします?」
「増やしましょう」
「即答ですね」
「需要があるなら作る」
それだけだった。
ところが。
ある日。
隣国から一人の使者がやってきた。
「沙樹様にお願いがあります」
「何でしょう?」
「新しい洗剤の製造方法を教えていただきたい」
「新しい?」
「はい」
使者は資料を広げた。
そこには。
隣国で作られた試作品の記録があった。
「これは?」
「我が国の技術者が作ったものです」
「……へえ」
沙樹は資料を読む。
「泡立ちは?」
「十分です」
「洗浄力は?」
「以前の製品より高い」
「すすぎは?」
「少し問題があります」
「なるほど」
沙樹は笑った。
「じゃあ、私が教える必要はないですね」
「え?」
「もう自分たちで改良できています」
使者は驚いた顔をした。
「しかし」
「問題点を自分たちで見つけている」
「はい」
「原因を考えている」
「はい」
「試作品を作っている」
「はい」
「だったら」
沙樹は資料を返した。
「続けてください」
「……」
使者はしばらく黙った。
そして深く頭を下げた。
「分かりました」
その日の夕方。
従業員が尋ねた。
「沙樹さん」
「何?」
「隣国に教えなくてよかったんですか?」
「むしろ逆です」
「逆?」
「教える段階を卒業したんですよ」
沙樹は笑った。
「最初は、何をどう調べるかを教える」
「はい」
「次は、規格を教える」
「はい」
「その次は、自分たちで改良してもらう」
「なるほど」
「最後は」
沙樹は工房の試験設備を見る。
「私たちが教わる側になる」
「……」
「隣国のほうが良い洗剤を作るかもしれませんよ」
従業員は笑った。
「それは困りますね」
「困らないですよ」
沙樹は言った。
「良い商品が増えるなら、そのほうがいい」
その頃。
王国の大学では。
新しい研究分野が生まれていた。
生活工学。
衛生工学。
物流管理。
農業統計。
地域経済。
水質管理。
廃棄物処理。
以前なら。
一つの学問として扱われていなかったものまで。
研究対象になっていた。
学生たちは。
大量の記録を集める。
実験する。
失敗する。
また試す。
そして論文を書く。
「この方法では失敗した」
「この条件では効果が低かった」
「この地域では別の方法が必要だった」
そんな記録も。
研究資料になった。
ある学生が教授に尋ねた。
「先生」
「何だ?」
「沙樹さんの最初の仕事って、石鹸だったんですよね?」
「そうだ」
「それが、どうしてこんなことになったんでしょう?」
教授は笑った。
「石鹸を売ったからだ」
「……?」
「石鹸を売った」
「はい」
「すると水が必要になった」
「はい」
「水を使えば汚水が出る」
「はい」
「人が増えれば、ごみも増える」
「はい」
「農業が増えれば、保存が必要になる」
「はい」
「保存すれば物流が必要になる」
「なるほど」
「物流が増えれば道路が必要になる」
「……」
「人が集まれば住宅が必要になる」
「……」
「住宅が増えれば学校や病院が必要になる」
教授は黒板に一本の線を引いた。
「一つを改善すると、別の問題が出てくる」
そしてもう一本、線を引く。
「その問題を解決すると、さらに別の産業が生まれる」
学生は黒板を見つめた。
「じゃあ……」
「そうだ」
教授は笑った。
「国というものは、そうやって変わっていくのかもしれないな」
その夜。
沙樹は工房に残っていた。
「……もう少し」
新しい洗剤を試す。
布に油汚れをつける。
洗う。
すすぐ。
乾燥させる。
記録する。
「まだ落ちるな」
もう一度。
配合を変える。
また試す。
「うーん……」
そこへ。
工房長がやってきた。
「沙樹さん」
「はい?」
「もう夜ですよ」
「知ってます」
「帰らないんですか?」
「あと一回だけ」
「その『あと一回』、三回目です」
「……」
沙樹は少し考えた。
「じゃあ、あと二回」
「増えてます!」
工房に笑い声が響いた。
外では。
王国の街灯が灯っている。
街道には荷車が走っている。
市場では商人が商談をしている。
学校では学生が勉強している。
病院では医師が働いている。
農村では収穫物が倉庫へ運ばれている。
隣国でも。
同じような光景が広がっている。
そしてそのどこにも。
沙樹は必要ではなかった。
それが。
沙樹にとって一番嬉しいことだった。
「さて」
沙樹は試験表に数字を書き込む。
「次は、もっと少ない水で洗えるようにしよう」
王国が発展しても。
世界が変わっても。
沙樹の仕事は。
まだ終わらない。
いや終わらせるつもりなど最初からなかった。




