■第二十九話 汚水を流すにも規格が必要だった
「産業排水……」
沙樹は机の上に広げた王都の地図を眺めていた。
これまで。
石鹸を作った。
洗剤を作った。
足部衛生用品を作った。
そして。
水道を整備した。
しかし。
水を綺麗にするだけでは終わらない。
使った水は。
どこかへ流れていく。
家庭から出る水。
食堂から出る水。
洗濯場から出る水。
そして工房から出る水。
「ここを放置したら、元に戻っちゃう」
トーマが頷いた。
「川が汚れる、と」
「そう」
沙樹は地図を指差した。
「特に工房」
染色。
皮革加工。
金属加工。
油を扱う工房。
それぞれ出てくる汚れが違う。
「全部同じ方法で処理するわけにはいかない」
そこで沙樹は再び商会とギルドを集めた。
会議室には。
石工ギルド。
金属加工ギルド。
染色業者。
皮革業者。
商会。
運送業者。
そして水質調査班。
前回よりも人数が多い。
沙樹は黒板の前に立った。
「今日から、工場や工房から出る水についても基準を作ります」
ざわめきが起こる。
一人の工房主が手を挙げた。
「基準とは?」
「どんな水でも、そのまま川へ流していいわけではないということです」
別の男が言う。
「しかし、これまでずっと流してきました」
「知っています」
沙樹は頷いた。
「だからこそ、今から変えます」
反発する者もいた。
「設備を作るには金がかかる」
「小さな工房には負担が大きい」
「そんな規則を作ったら商売にならない」
沙樹は黙って話を聞いた。
そして。
一枚の資料を出した。
「では、全部を一度にやる必要はありません」
「え?」
「工房の規模に応じて段階を分けます」
小規模工房。
中規模工房。
大規模工房。
それぞれに必要な設備を変える。
さらに。
共同処理施設を作る。
「小さな工房が全部、自前の処理設備を持つ必要はありません」
沙樹は説明した。
「近くの工房がまとめて排水を処理する」
「共同で費用を負担する」
「なるほど……」
商会主たちが資料を見る。
「これなら小さな工房でも参加できます」
「そう」
沙樹は頷いた。
「分業です」
また分業だった。
原料を分ける。
製造を分ける。
包装を分ける。
運送を分ける。
そして排水処理まで分ける。
「排水処理だけを専門にする会社があってもいい」
その言葉に一人の商会主が顔を上げた。
「排水処理専門商会……」
「はい」
「つまり、工房から料金をもらって、水を処理する」
「そうです」
商会主の目が変わった。
「それなら商売になります」
トーマが小声で言った。
「また新しい産業が生まれましたね」
沙樹は苦笑した。
「私もそう思う」
数か月後。
王都の外れに。
巨大な施設が建設され始めた。
『共同排水処理場』
石工ギルドが池を作る。
金属加工ギルドが配管を作る。
木工職人が設備を作る。
運送商会が資材を運ぶ。
そして。
水質調査班が処理工程を確認する。
最初の設備は。
複雑なものではなかった。
大きな沈殿槽。
ろ過設備。
用途に応じた処理設備。
そして。
処理した水を確認するための検査場。
沙樹は完成した設備を眺めた。
「まずは、ここから」
「これで綺麗になるんですか?」
トーマが聞く。
「全部の汚れが簡単に消えるわけじゃないよ」
沙樹は答えた。
「だから、水質を確認して、必要な処理を変える」
染色工房の排水。
皮革工房の排水。
油を扱う工房の排水。
それぞれを分類する。
「混ぜる前に分ける」
これも重要だった。
一つの巨大な水槽に全部流し込むのではない。
汚れの種類によって。
適切な処理を行う。
そして最後に排水の状態を検査する。
基準を満たしていれば川へ戻す。
「水も品質管理なんですね」
トーマが言う。
「そう」
沙樹は頷いた。
「商品だけじゃない」
「水にも品質がある」
その考え方は少しずつ広がっていった。
工房には『排水記録簿』
が置かれるようになった。
いつどのくらいの排水を出したか。
どこで処理したか。
誰が確認したか。
記録する。
そして水質検査の結果も保存する。
「記録って、そんなに大事ですか?」
若い職人が尋ねた。
沙樹は答えた。
「問題が起きたときに、原因を探せるから」
どこから出たのか。
いつ出たのか。
何を使ったのか。
どの処理をしたのか。
記録があれば追える。
記録がなければ。
何も分からない。
「つまり」
トーマが言った。
「衛生産業って、帳簿産業でもあるんですね」
「……確かに」
沙樹は笑った。
それから王都で大きな変化が起きた。
川の様子が少しずつ変わった。
以前は工房が集中する地域で。
水が濁ることがあった。
しかし排水処理が始まってから。
その頻度が減っていった。
住民たちも気づき始める。
「最近、川が前より綺麗じゃないか?」
「臭いも減った気がする」
「魚が戻ってきた場所もあるぞ」
沙樹は川岸に立っていた。
水面を見る。
トーマが隣に立つ。
「成功ですか?」
沙樹は少し考えた。
「まだ分からない」
「え?」
「一時的に綺麗になっただけかもしれない」
だから。
測定を続ける。
記録を続ける。
設備を改善する。
そして。
基準を見直す。
「一度作った規則を、そのままにしちゃ駄目なんだよ」
沙樹は言った。
「状況が変われば、基準も変える」
その頃。
内田生活工房には。
新しい商談が舞い込んでいた。
「水質検査道具を作れないか?」
商会からの依頼だった。
沙樹は目を輝かせた。
「水質検査?」
「はい」
「……それ、面白い」
トーマが嫌な予感を覚える。
「また新商品ですか?」
「もちろん」
沙樹は机に向かった。
水の状態を調べる。
濁り。
におい。
酸性・アルカリ性。
そして用途に応じた簡易検査。
「専門家だけが使えるものじゃなくて」
沙樹は言った。
「現場の職人でも使える簡易検査道具を作る」
すると。
また分業が始まった。
検査容器。
金属部品。
測定器具。
試験用の薬品。
説明書。
包装。
それぞれを別の商会とギルドが担当する。
内田生活工房は。
検査方法と規格をまとめる。
「……」
トーマが資料を見ながら呟く。
「最初は石鹸でしたよね?」
「うん」
「今は水道に排水処理に水質検査です」
「うん」
「次は何です?」
沙樹は少し考えた。
そして。
窓の外を見た。
街では。
人々が水を汲んでいる。
洗濯をしている。
食器を洗っている。
学校では子供たちが手を洗っている。
病院では医師たちが器具を洗浄している。
軍では兵士たちが足を洗っている。
「……次は」
沙樹が口を開く。
「ごみかな」
「ごみ?」
「そう」
生活が清潔になる。
水が整備される。
排水も管理される。
すると。
今度は。
街に残る大量のごみが目立ってくる。
生ごみ。
灰。
壊れた道具。
古い布。
容器。
工房から出る廃棄物。
沙樹は新しい帳簿を開いた。
そしてそこに書く。
『第三次・生活衛生計画』
その下に大きく
『廃棄物管理』
と書き込んだ。
トーマがため息をつく。
「……また始まりましたね」
沙樹は笑った。
「だって、石鹸を売ったら」
「はい」
「街が綺麗になっちゃったんだから」
「だから次の問題が見える、と」
「そういうこと」
内田生活工房の仕事は
もう石鹸屋ではなくなっていた。
人々の暮らしを少しずつ
根本から変える産業へと
変わり始めていた。




