レベルアップ
静寂が訪れ、俺たちは一言も発さなかった。ゴブリンですら恐れるように、あの手が届かないところへ行こうとじりじりと移動している。
『終わった?』
伊佐美のスマホがコメントを自動で読み上げる。伊佐美はスマホに向かって、静かにするように人さし指を立てている。冷静になれば読み上げ機能を切ればいいだけなのだが、恐怖に頭が麻痺した俺たちにそんな余裕はなかった。
ゴブリンを警戒しながら、揺らめく渦を警戒する。ほんの僅かな時間なのに、こんなに疲れる事は経験したことがない。稽古で二対一は経験しているが目の前の相手は化け物で、そしてもう一つは正体不明の謎の手だ。この緊張感は稽古にはなかった。
それはゴブリンも同じだったのだろう。もしかしたら仲間を失った分だけ、ゴブリンのほうが苛烈な状況だったのかもしれない。
「ギァアーーーー!」
決心したようにゴブリンは俺に向かって飛びかかる。互いに手に持った棍棒で打ち合うと、硬い木がぶつかり合い、俺は肘の辺りまで痺れが走る。
「なにくそっ!」
戦場で武器を落としたら死ぬ。ガキの頃、師範によくそう言われていた。今どき戦場なんてあるわけないとガキの時分に思っていたが、今の状況は正しく戦場だ。だが……。
「圭ちゃん!」
『負けんなっ!圭ちゃん』
視界の隅で伊佐美が顔を真っ赤にして、泣きそうになりながら俺を応援している。伊佐美は、いつかの大型犬を撃退した時と同じ顔をしている。俺が感傷に浸りかけているのに、伊佐美はしっかりスマホで俺とゴブリンの戦闘を記録している。配信ソフトが読み上げるコメントに、何故かスッと肩から力が抜けて楽になる。
馬鹿馬鹿しい。こっちは命のやり取りをしているのに、画面の向こうで気軽にコメントしてる奴がいる。俺は鼻からふんっと息を吐くと、不思議と頭の中が軽くなった。
「ギィー!」
ゴブリンが力任せに棍棒を振り下ろす。俺が膝を抜いて半歩下がると、ゴブリンの一撃は点字ブロックに当たって大きく弾む。
(ここぞで力を入れるには、常に力みすぎなんだよ。お前は)
師範も言ってたなと思い出して、俺は命のやり取りをしているのに笑顔になっていた。俺は逆袈裟でゴブリンの顔を下から、打ちつける。
『よし!』
「圭ちゃん、やっちゃえー!」
伊佐美はすぐ後ろにいるのに、応援の声が少し遠くから聞こえる気がする。ゴブリンは歯を食いしばり、たぶん必死の形相だ。俺は初撃ほどの痛みは感じていない。
「後で師範に、このアーカイブ見せてやる」
俺たちは再び、正面から打ち合った。俺は右手を添えるように脱力して、一撃の衝撃をいなした。ゴブリンはついに打ち合う痛みに、片手を離した。その瞬間、死合は決していた。間髪なく振り下ろした、俺の一撃はゴブリンの頭蓋を割る。目から、鼻から血を流してゴブリンが倒れる。
「ハァ……ハァ……」
棍棒から手を離すと、ガンっとタイルにぶつかって大きな音が響く。
「どんな木が材料なんだよ……」
俺は大の字で小汚い新宿駅の地下道に寝転がる。
「あぁ、もうどうでもいい!疲れた……」
伊佐美が恐る恐る近づいてくる。動画を撮りながら、枕などないが、俺の枕元に立つ。伊佐美のスカートがヒラヒラしている。深淵のようなスパッツが見えて、俺はため息を吐いて目を瞑った。
「圭ちゃん!」
伊佐美が声を張り上げたので、俺は飛び起きる。渦からは何も出て来てはいない。揺らめいているだけで渦は回転していない。
「何だよ……。ビビらせるなよ」
俺が伊佐美を振り返るとキラキラした瞳で、ゴブリンの死体を見つめている。こいつはこんなに性格悪かったか?と疑問を抱きながら、俺もその視線に追従した。
ゴブリンの死体が金色に輝き、光の粉になって消えた……。緑色のキラキラした石だけを残して……。




