第8話「不協和音」
シリルが定例報告のために王都へと発った翌日の昼下がり。
エリオは屋敷の庭に作られた小さな花壇の前で、荒れた土を整えていた。
空は薄暗い。
雪は降っていないものの、突き刺さるような寒風が吹き荒れている。
公爵の経済封鎖によって領地の物資は枯渇しつつあった。
それでもマリエルや仲間たちと協力し、何とか食いつなぐ方法を模索している。
そこに、泥だらけの服を着た一人の少年が、息を切らして屋敷の門を駆け抜けてきた。
近隣の村で農業を営む一家の末息子だ。
「エリオ様……っ! 大変、です……ガリウスさんが……!」
少年は膝に手をつき、肺を破るような激しい咳を繰り返しながら、どうにかその言葉を絞り出した。
「落ち着いて。ガリウスに何があったの?」
「村の自警団の訓練中に……急に、ガリウスさんの指示がおかしくなって……仲間同士で、魔法を撃ち合って……」
エリオの手から、小さなクワが乾いた音を立てて地面に落ちた。
全身の血の気が引き、心臓が警鐘を鳴らすように激しく打ち始める。
ガリウスは、エリオが戦術指揮の才能を見出し、真調べによってその適性を開花させた元王国兵だ。
彼はその能力を活かし、領地周辺の盗賊対策として村の自警団を組織し、見事な連携を指導していたはずだった。
「すぐに案内して」
エリオは外套を引っつかみ、少年とともに現場へと走った。
泥濘を抜け、村の広場にたどり着いたとき、そこには凄惨な光景が広がっていた。
数名の自警団員が地面に倒れ、呻き声を上げている。
周囲の木々は焦げ、魔力の暴走による小さなクレーターがいくつも口を開けていた。
そして広場の中央で、ガリウスが頭を抱えてうずくまっていた。
「違う……そんな指示は出していない……なぜ、右翼が崩れる……!」
彼のうわごとのような声は、現実に起きていない幻の戦場へ向けられているようだった。
エリオはガリウスのそばに駆け寄り、その肩を強く揺さぶった。
触れた瞬間、脳内に流れ込んできた旋律は、以前聴いた緻密な指揮の調べとは完全に異なっている。
すべての音が調和を失い、金属同士がこすれ合うような激しい不協和音が頭の中で爆発した。
視界に舞う光の粒は濁り、黒い煙のように絡み合ってガリウスの体を締め付けている。
「……不協和反動」
エリオの唇から、震える声が漏れた。
能力が安定せず、本人の精神の許容量を超えて暴走する現象。
真調べの力は、眠れる才能を見つけ出し、強制的に鳴らすことができる。
しかし、エリオは音を放つことだけを彼らに求め、調律する工程を省いていた。
精神的な準備も、段階的な訓練も、挫折した心をケアする時間も持たせず、ただ結果だけを与え続けた。
器が整っていない状態で巨大な魔力を注ぎ込まれれば、いずれひび割れて壊れるのは当然の理屈だ。
エリオはガリウスの胸に手を当て、必死に魔力の波長を落ち着かせようと自身の無音の波を重ねる。
数分後、ようやくガリウスの過呼吸が収まった。
焦点の合っていなかった瞳が、ゆっくりとエリオを捉える。
「……エリオ、様。私はいったい……彼らを、私が……?」
周囲で倒れている仲間たちを見て、ガリウスの目に恐怖と絶望が広がった。
彼は自分の両手を見つめ、激しく震え出す。
「才能など、知りたくなかった……! こんな力、ただの呪いだ」
その悲痛な叫びは、物理的な刃のように深くエリオの胸を突き刺した。
その後、次々と最悪の報告がフォンテーヌ邸へ舞い込んできた。
薬草魔術を開花させた青年は、魔力制御を誤って村の畑を毒性の植物で埋め尽くしてしまった。
古代言語を解読した少女は、大量の情報処理に脳が追いつかず、重度の錯乱状態で倒れたという。
『――私、また同じことをしている』
夜の自室。
明かりもつけず、冷たいベッドの端に座り込んだエリオは、両手で顔を覆っていた。
暗闇の中で、前世の記憶が津波のように押し寄せてくる。
締め切りに追われ、他者の期待に応えるためだけに睡眠と食事を削って物語を紡ぎ続けた桐生燈子の最後の日々。
自分の限界を無視し、ただ結果を出すことだけに没頭して、最終的に自分自身を壊した。
『あのときは原稿で、今度は人の才能で。結果を急ぎすぎて、人の心という一番大切な基盤を無視した。だから、あの人たちを傷つけた……』
誰かを救いたかったはずの力が、最悪の形で彼らを破壊してしまった。
自分には力を使う資格などなかったのだ。
そんな絶望が、冷たい水のように足元からせり上がってくる。
この連続した反動事故を、王都にいる公爵が見逃すはずがなかった。
数日後、公爵の手先である調律院の査定官たちが村に現れる。
彼らは被害者たちの家族にわずかな見舞金と引き換えに、エリオの覚醒術による被害証言を記した書類への署名を求めて回った。
さらに公爵は、王宮の法務局に巧妙に偽造された文書を提出していた。
それは、フォンテーヌ家が代々音を聴く力を使って、他家の人事に不正介入していたとする架空の歴史記録だ。
真実と嘘を絶妙に混ぜ合わせたその書類は、エリオの力を王国臣民への身体的危害を及ぼす邪法として完全に定義づけるものだった。
『公爵は暴力ではなく、合法的な手続きで私の首を絞めに来る。私の失敗を最大の武器にして』
エリオは暗い部屋の中で、自分自身の愚かさと向き合いながら、完全な孤立へと追い詰められていくのを感じていた。
シリルが戻るまで、この包囲網を持ちこたえることができるのか。
あるいは、シリルすらもこの波に飲み込まれてしまうのか。
深い暗闇の中、絶望の冷気がエリオの体をゆっくりと侵食し始めていた。




