第7話「公爵の影」
風の冷たさが和らぎ、領地の土の表面にわずかな雪解けの兆しが見え始めた頃。
フォンテーヌ・サロンの活気とは裏腹に、エリオを取り巻く状況は静かに、しかし確実に悪化の一途をたどっていた。
発端は、近隣の町へ食材の買い出しに出ていたマリエルが、手ぶらで屋敷へ戻ってきたことだった。
彼女の肩は怒りで小刻みに震え、琥珀色の瞳には困惑の色が浮かんでいる。
「エリオ様、市場の商人たちが、私たちへの食材の販売を拒否しました。王都の問屋から、フォンテーヌ家と取引をする者には一切の物資を卸さないと通達があったそうです」
エリオは修復された東棟の執務室で、依頼者たちのリストが記された羊皮紙から顔を上げた。
暖炉の火が室内を温めているが、エリオの心臓は冷たい手でつかまれたように温度を失う。
「……始まったか」
王都大聖堂の中心で、三代にわたり位階制度を管理し続けてきた巨大な権力。
聖庁調律院の長、大調律卿オーギュスト・ド・ヴァレンティア公爵。
彼にとって、調律院の測定結果を覆し、独自の判定で人々の才能を覚醒させているエリオの存在は、社会の秩序そのものを揺るがす異端だった。
公爵は決して自らの手を汚すような短絡的な暴力は使わない。
法と制度、そして経済という目に見えない鎖を使って、標的の周囲から空気を奪っていくように静かに締め上げる。
それが三年前にフォンテーヌ家を没落させた黒幕の、最も得意とする戦法だった。
翌日には、サロンを訪れる依頼者の数が激減した。
王都の貴族社会を中心に、「エリオの覚醒術は邪法であり、いずれ精神を破壊する反動が来る」という根拠のない噂が、もっともらしい体裁を整えて流布され始めたからだ。
公爵の放った見えない影が、フォンテーヌ領を確実に包囲しつつある。
『ラスボスの動きとしては満点だよ。武力で来るならシリルが盾になれるけど、経済と社会的な孤立を狙ってくるなら、近衛隊長個人の力ではどうにもならない。詰将棋だ』
机の上に広げたままの帳簿を見つめながら、エリオは唇を噛みしめた。
今の自分には、公爵の盤面をひっくり返すだけの手駒も資金も圧倒的に足りていない。
◆ ◆ ◆
その夜、近衛隊の定例報告のために王都へ一時帰還することになったシリルが、エリオの自室を訪れた。
窓の外では冬の冷たい風が吹き荒れ、古いガラスをガタガタと鳴らしている。
ランプの小さな火影が、室内を淡いオレンジ色に染めていた。
シリルは軍服の襟元をわずかに緩め、入り口の扉を背にして立っている。
普段の隙のない立ち姿とは違い、その肩には微かな迷いと疲労が重くのしかかっているように見えた。
「明日、王都へ発つ。早ければ三日で戻るが、その間、屋敷の外には出るな」
シリルの声は低く、警告を含んでいた。
「公爵が動いていることは知っているな」
「……ええ。経済封鎖に、悪評の流布。真っ向からの力押しじゃない分、たちが悪いです。でも、僕のことは心配しないでください。サロンの運営は一時的に縮小して、大人しくしていますから」
エリオは安心させるように微笑み、シリルの前に進み出た。
しかし、シリルの藍色の瞳は、かつてないほど激しく揺れ動いていた。
彼は突然、身を翻すようにエリオへ歩み寄り、その華奢な肩を両手でつかんだ。
分厚い手袋越しでも、彼の手の震えと強烈な握力が伝わってくる。
「シリル……?」
「……俺は、自分の音というものをずっと不要だと思っていた」
絞り出すような低い声だった。
シリルの無表情な仮面の下から、これまで必死に抑え込んできた感情の奔流が、痛みを伴ってあふれ出そうとしている。
「近衛に必要なのは、王国を守る剣の才能と、上官への忠誠だけだと。そう自分に言い聞かせて、この二十年間、ただの冷たい刃として生きてきた。だが」
シリルは息を飲み、エリオの紫水晶色の瞳を射抜くように見つめた。
「お前の傍にいると、それが嘘だったと突きつけられる」
「……」
「お前が俺の本当の音に気づき、それに触れようとしたときから、俺の中に押し込めていたものが少しずつ形を持ち始めた。お前がいない場所に戻ることを考えると、胸の奥がひどく軋む。こんな感覚は……初めてだ」
シリルの手から力が抜け、エリオの肩から滑り落ちそうになる。
その手を、エリオは下からそっと受け止め、自分の両手で包み込んだ。
冷たい皮の手袋を外し、素肌同士を重ね合わせる。
エリオの脳裏に、シリルの中に封印された「癒しの調べ」が、切なく、かすかに鳴り響くのが聴こえた。
それは、傷ついた鳥が小さな声で鳴いているような、弱々しいが確かな命の響きだった。
「これが何なのか、俺にはまだ正確にはわからない。だが」
シリルの視線が下がり、エリオと重なった手を見つめた。
「……離れたくない。お前を一人にして、王都に戻りたくない」
エリオは、息をするのも忘れていた。
前世で三十八年、今世で十八年。
合計五十六年分の人生経験と、何百本という恋愛小説を書き上げてきた作家としての知識。
あらゆる告白のパターン、あらゆる感情の表現を知り尽くしていたはずだった。
完璧な言い回しも、劇的なシチュエーションも、文字の上では自由自在に操ってきた。
それなのに。
目の前で、不器用すぎるほど真っ直ぐに、言葉を探りながら必死に想いを伝えようとするこの男の告白が、どんな名文よりも激しく、エリオの胸の奥を甘く揺さぶっていた。
『……ずるいよ。こんなの、私には書けない。文字を並べただけじゃ、この体温も、震える声の低さも、何も表現できない』
胸の奥で、甘く低い旋律が静かに鳴り響き始めた。
それは真調べの力ではない。
エリオ自身の心臓が、シリルへの想いを明確な音として自覚した瞬間だった。
エリオは両手で包み込んでいたシリルの手を引き寄せ、自分の頬に当てた。
シリルの手のひらは驚くほど熱く、かすかに震えている。
「僕もだよ、シリル。君に傍にいてほしい。君が帰ってくるのを、ここでずっと待ってる」
シリルの藍色の瞳がわずかに見開かれ、そして、ゆっくりと痛みに耐えるように目を閉じた。
彼はエリオの頬を優しくなで、そのまま額と額を合わせた。
二人の呼吸が重なり、狭い部屋の中に温かい静寂が落ちる。
言葉はない。
ただ、互いの存在を肌で確かめ合うような、切実な触れ合いだけがあった。
エリオは目を閉じながら、前世の直感が告げる残酷な事実を受け止めていた。
公爵の包囲網は、すでに完成しつつある。
この静かで幸福な時間は、嵐の前の短い凪に過ぎない。
シリルが王都へ向かえば、次に来るのは言葉や経済ではなく、明確な断罪の刃だ。
それでも、今はこの手のひらの熱だけを信じていたかった。




