第6話「溶ける沈黙」
調査終了の宣告から数日が経ったが、シリルは王都へ戻ることなく、「継続監視」という名目でフォンテーヌ領に留まり続けていた。
領内にある小さな宿屋を拠点とし、毎朝必ずエリオの屋敷に姿を見せる。
表向きは監視任務だが、エリオに対する厳しい尋問や強圧的な態度はすっかり影を潜めていた。
エリオは彼を拒むことなく、以前と変わらぬ態度で接し続けた。
ある日の午後。
エリオは屋敷の厨房で、近隣の村から差し入れられた野菜と少量の干し肉を使い、シチューを作っていた。
マリエルはアカデミー設立のための建築設計図の作成に追われ、他の使用人たちも別の作業にかかりきりになっている。
木べらで鍋をかき混ぜていると、背後の戸口に人影が立った。
シリルだ。
彼は制服のコートを羽織ったまま、腕を組んでエリオの作業を無言で見つめている。
物理的な距離は、最初に出会ったときのテーブル越しから、今や同じ空間の中で自然に立ち話ができる程度まで縮まっていた。
「隊長さんが、没落貴族の厨房を監視して何か面白いことが見つかりますか?」
エリオは振り返らずに軽口を叩きながら、小皿にすくったシチューの味見をした。
「……近衛の任務に私情を挟むことはない。対象の生活行動すべてが監視の対象だ」
「真面目ですね。でも、ずっと立っているのも疲れるでしょう。もうすぐ出来上がりますから、毒見も兼ねて少し食べていきませんか」
シリルは一瞬眉をひそめたが、やがて無言のまま厨房の隅にある小さな丸テーブルの椅子に腰を下ろした。
エリオは木製の深い皿に温かいシチューを取り分け、スプーンを添えてシリルの前に置く。
湯気とともに、素朴だが食欲をそそる香りが漂った。
「たいした食材は使っていませんが、冷えた体には効くはずです」
シリルは無言でスプーンを手に取り、ゆっくりと一口分を口へ運んだ。
咀嚼し、飲み込む。
その直後、隙のない無表情がほんのわずかに緩んだのを、エリオは見逃さなかった。
「……美味い」
消え入るような声で呟かれたその一言に、エリオの心臓が不規則な音を立てた。
『やめて。これまるでスロウバーンの中盤の展開じゃん。距離が縮まるたびに、読者の感情が蓄積されていくやつ。でも私は読者じゃなくて当事者なの。心臓がもたない』
エリオは動揺を隠すように鍋の前に戻り、背を向けたまま深呼吸を繰り返した。
食事のペースが早い。
シリルはあっという間に皿を空にし、わずかに口元を緩めたままエリオの後ろ姿を見つめていた。
◆ ◆ ◆
それから数日後。
冬の嵐が領地を直撃し、数年に一度という猛烈な吹雪が荒れ狂った。
サロンの運営と連日の真調べによる魔力消費の反動で、エリオの体調は限界を迎えていた。
夕食の準備中、突然の悪寒と強烈なめまいに襲われ、そのまま床に倒れ込んでしまったのだ。
マリエルの悲鳴に近い声で呼ばれた使用人たちによって、エリオは自室のベッドへと運ばれた。
高熱にうなされ、関節の痛みに耐えながら、エリオは暗い部屋の中で息を荒くしていた。
前世で一人、机の上で息絶えた記憶がフラッシュバックし、呼吸がさらに浅くなる。
『……また、ここで終わるのか』
ぼやける視界の中で、重い扉が開く音がした。
足音が近づき、ベッドの傍らに誰かが座る気配。
氷のように冷たいタオルが、燃えるような額にそっと置かれた。
熱を持った手が、骨張った冷たい手に包み込まれる。
「……エリオ。俺だ。聞こえるか」
低く、不器用で、しかし明確な焦燥を含んだシリルの声だった。
「……シリル……」
「しゃべるな。熱が下がるまで、俺がここにいる」
シリルの声は、いつもよりもずっと低く、かすかに震えていた。
彼の手から、言葉にならない感情が体温として伝わってくる。
エリオは彼の手を握り返そうとしたが、力が入らない。
そのまま深い眠りの底へと引きずり込まれていった。
翌朝。
窓から差し込む冬の冷たい朝日で、エリオは目を覚ました。
熱は下がり、体は嘘のように軽くなっている。
視線を動かすと、ベッドの脇に置かれた椅子で、シリルが腕を組んだまま浅い眠りについていた。
その目元には、明らかな疲労の色が濃く刻まれている。
一晩中、つきっきりで看病してくれていたのだ。
「……シリル」
かすれた声で呼ぶと、彼はすぐに目を覚まし、身構えるように姿勢を正した。
「目が覚めたか。熱は……下がったようだな」
「一晩中、ここにいてくれたの?」
「……監視対象が病死しては、任務に支障をきたすからな」
不器用な言い訳に、エリオは自然と笑みをこぼした。
「ありがとう。君がいてくれて、安心したよ」
その瞬間、シリルの藍色の瞳が揺れ、彼の手がベッドの上にあるエリオの髪に触れそうになり、途中で止まった。
そのままゆっくりと手を下ろし、顔をそむける。
「……無理をするな。お前は、自分の音をすり減らしすぎている」
その言葉には、ただの警告ではない、深い思いやりが込められていた。
自分が封印してきた「癒しの調べ」を呼び覚まそうとするエリオの存在が、シリルにとってどれほど大きな意味を持ち始めているか。
二人だけの静寂な空間で、エリオとシリルの間の壁は、春の雪解けのように確実に溶け落ちようとしていた。
しかし、この幸福な時間が長く続かないことを、エリオの前世の作家としての直感が告げていた。
物語は嵐の前の凪に過ぎない。
王都に鎮座する絶対的な秩序の守護者が、このまま静観しているはずがなかった。




