第5話「静寂の剣」
冬の空気が鋭さを増し、吐く息が白く凍りつくような朝だった。
修復された東棟の暖炉の前で、エリオは数人の訪問者たちの対応を終え、疲れから小さくため息をついていた。
マリエルが差し出してくれた白湯をすすり、冷えた指先を温める。
「フォンテーヌ調べ相談所」と名付けたこの場所には、連日のように調律院の測定結果に絶望した者たちが足を運んできていた。
彼らの魂に触れ、本当の音色を聴き取り、正しい方向へ導く。
それは前世で原稿を書き続けるのと同じくらい、あるいはそれ以上に精神力をすり減らす作業だったが、確実に没落したフォンテーヌ家の存在意義を取り戻しつつあった。
そのとき、屋敷の重い鉄門が軋む音が響いた。
普段の依頼者たちが乗ってくるような質素な荷馬車ではなく、複数の軍馬が石畳を蹴る規則正しいひづめの音だ。
マリエルが窓から外を覗き込み、顔色を変えた。
「エリオ様。王国の近衛隊です」
エリオはカップを置き、ゆっくりと立ち上がった。
来るべきときが来た。
調律院の厳格な測定を覆す存在が領地で活動しているとなれば、王都が黙っているはずがない。
しかも査定官ではなく、軍の最高エリートである近衛隊を派遣してきたということは、武力による威圧を前提とした調査だ。
エリオは襟元を正し、マリエルに奥の部屋へ下がるよう指示すると、一人で玄関ホールへと向かった。
開け放たれた扉の向こうに、冬の冷気とともに数名の軍人たちが立ち並んでいる。
その先頭に立つ男の姿を見た瞬間、エリオの思考がぴたりと停止した。
漆黒の髪が冬の風に揺れ、深い藍色の瞳が冷ややかにこちらを見下ろしている。
長身で鍛え上げられた体躯は、制式装備の軍服を完璧に着こなしていた。
一切の感情を排した、彫刻のような無表情。
近寄りづらいほどの冷厳な空気をまとったその男の造形は、三十八年間BL作家として生きてきた桐生燈子の魂を激しく揺さぶった。
『……長身、黒髪、藍色の目、感情を一切見せない無表情。近衛隊の最高幹部。これ……私が十五年書き続けてきた、理想の攻めの造形そのものなんだけど?』
作家としての本能が、目の前の男の完璧すぎる造形に対して歓喜の悲鳴を上げそうになるのを必死で押さえ込む。
『いやいやいや、現実。これは現実。相手はこっちを潰しに来た王都の軍人なんだから』
男は一歩前に出ると、凍りつくような低い声で名乗った。
「王国近衛隊長、シリル・ロシュフォール。聖庁調律院からの要請により、フォンテーヌ領内における不審な魔力行使の調査に参った」
シリル・ロシュフォール。
王都でも名高い「静寂の剣」の異名を持つ、史上最年少の近衛隊長。
剣術・統率ともに上音の位階を持つエリート中のエリートだ。
エリオは小さく息を吸い込み、動揺を顔に出さないよう努めながら、穏やかな微笑みを浮かべた。
「ご丁寧な挨拶をありがとうございます、ロシュフォール隊長。エリオ・フォンテーヌです。どうぞ中へ」
シリルの藍色の瞳が、わずかに細められた。
没落貴族の、しかも无音の烙印を押された少年が、近衛隊の最高幹部を前にして微塵も怯えを見せない。
その事実が、彼の中に微かな疑念を生んだようだった。
シリルは部下たちを外に待機させ、単身で屋敷の中へと足を踏み入れた。
◆ ◆ ◆
案内された応接室は、マリエルの力で修復されているとはいえ、家具は古く色あせていた。
シリルは勧められた椅子に座ることもなく、室内を鋭い視線で見回した。
「単刀直入に聞く。お前が調律院の測定結果を覆し、新たな才能を与えているという噂は事実か」
「半分は事実で、半分は誤りです。僕は誰かに才能を与えたりはしていません」
エリオはシリルの正面に立ち、真っ直ぐにその目を見返した。
腕を伸ばしても届かない距離。
身分の差と、調査官と被疑者という立場の壁が、二人の間に横たわっている。
「彼らが本来持っている本当の音色を、少しだけ聴きやすく整えてあげているだけです。調律院の共鳴晶が、複雑な波長を測定できないというだけのことですよ」
「聖庁の共鳴晶は絶対だ。それを否定することは、王国の法と秩序に対する反逆を意味する」
「法には違反していませんよ。僕はただ相談に乗り、彼らの長所を活かす方法を提案しているだけです。魔力の不正操作も、洗脳も行っていません。疑うなら、近衛の総力を挙げて調べていただいて構いません」
シリルの隙のない無表情が、ほんのわずかに崩れた。
誰もが彼の地位と権威の前にひれ伏すか、あるいは媚びへつらうかする中で、エリオはシリルをただの一人の人間として見つめている。
恐怖もなければ、過剰な敬意もない。
自然体で対等なその態度は、シリルにとって初めて経験するものだった。
「……お前の行動は、必ず王都の秩序を乱す結果を生む」
「秩序が彼らを苦しめるなら、少し乱れた方がいい」
エリオの言葉に、シリルは黙り込んだ。
それからの数日間、シリルは領地に滞在し、エリオの行動を監視し続けた。
サロンに訪れる人々とエリオのやり取りを、部屋の隅から無言で見つめる。
エリオが依頼者の手に触れ、言葉をかけ、彼らが希望を見出して帰っていく姿。
そこに不正の証拠はなく、ただ人が人を救う光景だけがあった。
調査の最終日。
帰還の準備を終えたシリルが、再び応接室に現れた。
「調査を終了する。現時点で、法に触れるような不正は見当たらなかった」
「それは良かったです。これで王都の上層部も少しは安心するでしょう」
「だが、調律院がこれで引き下がるとは思わないことだ」
忠告とも受け取れるその言葉を残し、シリルは背を向けて立ち去り、そのまま足早に応接室から出ていこうとした。
そのとき、エリオは無意識のうちに手を伸ばし、シリルの厚い手袋に覆われた手に触れていた。
「……何のつもりだ」
シリルが冷たい声で振り返る。
しかしエリオは、自分の手が触れた瞬間に脳内に流れ込んできた旋律の異常さに息を呑み、硬直していた。
『なんだ、この音は……』
シリルの体から立ち昇る光の粒は、不自然に歪み、激しく明滅している。
剣術の才能を示す、硬質で鋭利な刃のような旋律。
だが、その奥底に、無理やり鎖で縛りつけられ、押し込められた別の音が鳴り響いていた。
それは柔らかく、どこまでも澄んだ調べ。
傷ついた心や疲弊した精神を優しく包み込み、癒すための歌声のような力。
シリルの真の主適性は、剣術などではなかった。
「……癒しの調べ」
エリオの唇から、無意識にその言葉が漏れた。
シリルの顔色が、一瞬にして青白く変わった。
隙のない無表情が剥がれ落ち、そこには明らかな動揺と、古傷をえぐられたような痛みが浮かんでいる。
彼はエリオの手を乱暴に振り払った。
「侯爵家の後継ぎに、癒しなどという軟弱な才は不要だ」
絞り出すようなシリルの声に、エリオは直感的にすべてを理解した。
この封印は自然なものではない。
調律院の仕業だ。
軍を率いる侯爵家の名に傷がつかないよう、幼い頃に彼の本当の才能を無理やり封じ込め、剣術の才能だけを表面化させたのだ。
「そんな……自分の本当の音を殺して、今までずっと一人で……?」
エリオの言葉に、シリルは歯を食いしばり、深い藍色の瞳に怒りと悲哀をにじませた。
三十八年間、虚構のキャラクターの痛みに寄り添ってきた燈子の魂が、目の前で静かに血を流している一人の男の痛みに激しく共鳴する。
「お前には関係のないことだ」
シリルはきびきびと背を向け、足早に応接室から出ていった。
玄関の扉が閉まる重い音が、屋敷の静寂の中に虚しく反響する。
エリオは自分の手に残った、冷たい感触を見つめながら立ち尽くしていた。
誰よりも強大な権力を持ちながら、誰よりも自分の本当の声を押し殺して生きている男。
フィクションのキャラクターではない。
今、ここで呼吸し、傷ついている一人の人間。
『……放っておけない』
王都の権力に立ち向かうという決意の中に、シリルという男を救い出すという明確な目的が一つ増えた。
この日を境に、エリオの戦いの意味は大きく変わり始めていた。




