第10話「断罪の宣告」
夜明け前の青白い光が、降り続く雪をかすかに照らしていた。
フォンテーヌ邸の玄関前に広がる白い空間は、息が凍りつくような緊迫感に支配されている。
エリオの目の前に立つシリルの顔は、雪よりも蒼白だった。
彼の手には、ダリウスから渡された重い魔力封じの手錠が握られている。
金属の冷たい質感が、シリルの厚い手袋越しにも痛いほど伝わっているはずだった。
「来たんだね、シリル」
エリオは穏やかな微笑みを浮かべ、静かに言葉を紡いだ。
その声に非難の色は微塵もなく、ただ愛する者が目の前にいてくれることへの安堵だけがにじんでいる。
シリルは唇を震わせ、数秒の間、言葉を発することができなかった。
彼の内部で、激しい葛藤が吹き荒れているのが手に取るようにわかる。
エリオを守るためにすべてを投げ出すべきか。
それとも、近衛としての務めを果たし、王国の法に殉じるべきか。
どちらの道を選んでも、彼は深く傷つく。
「……命令だ。エリオ・フォンテーヌ。聖庁への出頭を……」
絞り出すような低い声。
その言葉の奥底で、彼の中に封印された癒しの調べが、悲鳴を上げて泣き叫んでいる。
エリオの真調べの感覚を通して、それが痛いほど伝わってきた。
「わかってる」
エリオはシリルの言葉を遮り、ためらうことなく自ら両手を差し出した。
白い雪の中に、華奢な手首が差し出される。
「君の立場を壊させない。君は近衛だ。君の誇りを、僕のせいで失わせたくないから」
エリオの瞳は、紫水晶のような強い光を放ってシリルを真っ直ぐに見据えていた。
前世で三十八年、誰かに必要とされるためだけに生きて死んだ。
今世では、初めて自分自身を必要とし、自分の存在そのものを大切に想ってくれる人に出会えた。
だからこそ、彼を犠牲にするような選択だけは絶対にしたくなかったのだ。
これは運命のすれ違いではない。
互いの立場と想いを完全に理解した上で、それでもなおこれしかないと選び取った、愛の決断だった。
シリルが一歩前に出る。
震える手で拘束具の輪を広げ、エリオの細い手首に冷たい金属を押し当てた。
カチャン、という無機質な音が雪空に吸い込まれるように響き、錠が下りる。
その瞬間、シリルは頭を低く下げ、エリオの手首を拘束具ごと両手で強く握りしめた。
分厚い手袋の奥から、無表情の仮面の下で慟哭している彼の痛みが、エリオの肌に直接流れ込んでくる。
「……必ず、迎えに行く」
誰にも聞こえないほどの低い声で、シリルは祈るように呟いた。
それは任務の報告でも、法的手続きの宣告でもない。
シリル・ロシュフォールという一人の男が、自らの命を懸けて誓った誓約だった。
エリオは拘束された両手で、シリルの手の甲にわずかに触れ返した。
「待ってる」
ダリウスが不快そうに咳払いをする音が聞こえ、シリルはゆっくりと体を離した。
彼は振り返り、ダリウスたちに向かって冷酷な近衛隊長の顔を取り戻す。
「連行の準備は整った。容疑者の身柄は、王都の大聖堂地下牢まで我々近衛が護送する」
「ご苦労なことだ。では、道中お気をつけて」
ダリウスは皮肉な笑みを浮かべ、査定官たちを引き連れて馬車へと戻っていった。
エリオは護送用の無骨な荷馬車へと乗せられる直前、一度だけ振り返って屋敷を見た。
窓の奥で、マリエルが口元を押さえながら泣き崩れているのが見える。
彼女たちが再び笑顔を取り戻すためにも、ここで潰れるわけにはいかない。
『行ってくるよ』
声には出さず、心の中でだけ仲間たちに別れを告げた。
◆ ◆ ◆
王都への道程は、冷たい雪と沈黙に閉ざされていた。
馬車が揺れるたびに、手首の拘束具が冷たく皮膚をこする。
シリルはエリオと同じ馬車に乗り込んでいたが、周囲には他の護衛も配置されているため、私語を交わすことは一切できなかった。
ただ、馬車が大きく揺れてエリオの体が傾くたびに、シリルがわずかに手を伸ばしかけては、空中で握りしめて膝に下ろす動作を繰り返している。
物理的には同じ空間にいるのに、触れ合うことが許されない距離感が、互いの胸を焼くように締め付けていた。
数時間後、馬車は王都の中心、大聖堂の裏門へと到着した。
冷たい石畳の上を歩かされ、地下へと続く螺旋階段を下りていく。
一段下るごとに、地上の光とざわめきが遠ざかり、代わりに濃密な湿気とカビの匂いがまとわりついてきた。
ここは聖庁が異端者を収容するための特別な地下牢であり、周囲の石壁には魔力を完全に遮断する処置が施されている。
真調べの力も、ここでは完全な沈黙を強いられる。
「この部屋だ。入れ」
査定官の一人が、重い鉄格子の扉を開けた。
内部には藁が敷かれただけの固いベッドと、小さな水差しが置かれているだけで、窓は一つもない。
エリオが中に入ると、すぐに鉄格子が閉まり、鈍い金属音が通路に響き渡った。
シリルは鉄格子の外で立ち止まり、その藍色の瞳でエリオを痛切に見つめている。
彼が何かを言おうと口を開きかけたとき、ダリウスが階段を降りてくる足音が聞こえた。
「ご苦労だった、ロシュフォール隊長。これより先は我々調律院の管轄だ。近衛の権限はここまでとなる」
「……」
シリルは何も答えず、ただ一度だけエリオに深くうなずいて見せると、踵を返して暗い通路を戻っていった。
彼の足音が完全に遠ざかり、ダリウスもまた冷ややかな笑みを残して立ち去ると、地下牢には完全な静寂が訪れた。
エリオは藁のベッドに座り込み、冷たい石の壁に背中を預けた。
手首の拘束具の重さが、現実の絶望的な状況をはっきりと教えてくれる。
外界の音は一切聞こえない。
光すら届かない、无音の牢。
サロンの仲間たちは散り散りになり、父は眠ったままで、シリルとは引き離された。
すべてが剥ぎ取られ、最後に残ったのは自分自身の孤独だけ。
闇の中で、冷たい冷気が足元からゆっくりと這い上がってくる。
『……ここが、一番の底だ』
前世の記憶が、薄暗い意識の中で再び明滅し始める。
机の上で過労死した桐生燈子。
そして、他人の才能を鳴らすことに夢中になり、反動で彼らを傷つけてしまったエリオ・フォンテーヌ。
二つの人生が、この暗闇の中で残酷なほどに重なり合おうとしていた。
冷たい石の壁に額を押し当てながら、エリオはただ一人、果てしない静寂の中に沈んでいった。




