第11話「无音の牢」
王都大聖堂の地下深く。
光を完全に遮断された石造りの牢獄で、エリオは時間の感覚を失いつつあった。
収監されてから何日が経過したのか、数える手段もない。
唯一の時計は、鉄格子の隙間から一日一回だけ差し入れられる硬いパンと、わずかな水だけだった。
魔力を封じる冷たい石壁に囲まれ、真調べの力すらも深海に沈められたように一切の響きを持たない。
拘束具の重みで手首の皮膚は赤く擦り切れ、冷気が骨の髄まで浸透していた。
藁の上にうずくまり、両膝を抱えてかすかに震える体を丸める。
完全な静寂と暗闇の中で、人間の思考は内側へと沈んでいく。
『……私は、三十八年間の人生で何を学んできたんだろう』
頭の中に浮かび上がるのは、前世の記憶。
桐生燈子としての最後の日々。
キーボードを叩く音だけが響く狭い部屋で、誰かに必要とされるためだけに自分の命を削り続けた。
休めば見捨てられる。
期待に応えられなければ、自分の存在価値は消えてしまう。
その恐怖だけが彼女を突き動かし、最終的に孤独な仕事机の上で心臓を止めた。
『そしてこの世界でも、同じことを繰り返した』
没落したフォンテーヌ家を立て直すため、そして自分自身の存在を肯定するために、人の才能を見つけては鳴らし続けた。
マリエル、ガリウス、その他大勢の調律院に見捨てられた人々。
彼らが救済の光に包まれて涙を流す姿を見るたびに、エリオは自分が誰かの役に立っているという確かな実感を得ていた。
しかし、それは自分のためだったのではないか。
能力が開花した後の精神的な反動や、彼らが抱える心の準備不足から目を逸らした。
救ってあげているという思い上がりで、結果的にガリウスたちを暴走させ、深く傷つけてしまった。
シリルもそうだ。
彼が長年抱えてきた癒しの調べという痛みに触れながら、彼を近衛という立場と自分への想いの間で引き裂き、苦しめてしまった。
結局のところ、自分は前世でも今世でも、誰かを本当の意味で救うことなどできていなかったのだ。
冷たい石の床に涙が落ちる。
胸の奥が、水を含んだ砂のように重く沈んでいく。
もう、誰も自分を必要としていない。
王都の法と教義の前に完全に敗北し、このまま地下牢で朽ち果てるのが自分にふさわしい結末なのだ。
差し入れられた固いパンにも口をつける気になれず、エリオはただ暗闇の中で自分の呼吸が徐々に浅くなっていくのを数えていた。
自分自身への絶望が、冷たい檻となって心臓を締め付けようとしている。
◆ ◆ ◆
収監から七日目の夜。
あるいは、昼だったのかもしれない。
廊下を歩く重い革靴の音が、遠くから少しずつ近づいてきた。
看守の巡回にしては足音が一つしかなく、歩幅も不規則に慎重だ。
エリオは藁の上から顔を上げ、鉄格子の向こうの暗がりを見つめた。
足音はエリオの牢の前でぴたりと止まった。
松明の明かりはなく、人の輪郭だけが黒い影として浮かび上がっている。
看守が何も言わずに鉄格子の隙間から手を差し入れた。
その手から、小さく折りたたまれた一枚の羊皮紙の破片が床に落ちる。
パラリ、という乾いた音だけを残し、黒い影は再び足音を忍ばせて廊下の奥へと消えていった。
エリオは這うようにして鉄格子へ近づき、その紙片を震える手で拾い上げた。
暗闇で文字を読むことはできない。
だが、紙片に触れた瞬間、拘束具に封じられているはずの真調べの力が、ほんのわずかに波打つ感覚があった。
紙に残された書き手の魔力の痕跡が、エリオの皮膚を通じて微弱な音として伝わってくる。
不器用で、しかし恐ろしく温かい響き。
シリルの魔力だ。
エリオは紙片を握りしめたまま、鉄格子の外、遠くの階段からかすかに漏れ入る青白い月明かりの下へ移動した。
目を細め、紙片に記された短い二行の文字を読み取る。
『――――あなたが俺の音を聴いてくれたから、俺は初めて自分の声を知った。今度は俺が、あなたの声になる』
たったそれだけの言葉だった。
だが、その二行が持つ重みと温度が、エリオの魂の最も深い場所を貫いた。
三十八年間、誰かの役に立たなければ存在価値がないと信じ込んでいた呪縛。
しかし、シリルはエリオの能力の有用性に惚れたわけではない。
真調べの力があろうとなかろうと、反動で失敗を犯そうと、エリオという人間そのものの脆さや不完全さを含めて愛してくれている。
あなたが何をできるかではなく、あなたがいることに意味がある。
燈子の人生で、誰も言ってくれなかった言葉。
エリオの人生で、初めて手に入れた無条件の肯定。
胸の内側で、シリルの不器用な文字から伝わる低い旋律が甘く鳴り響いた。
冷え切った指先から徐々に温もりが広がり、重く沈んでいた心臓が大きく跳ねる。
涙があふれ出した。
前世で一人仕事机に突っ伏して流すこともできなかった分まで、声を出して泣いた。
『ああ……そうだ。私はずっと、誰かに休んでいいと言ってもらいたかったんじゃない』
暗闇の中で、嗚咽とともに一つの真実が形を結んでいく。
『ただ、いてくれるだけでいいと、そう言ってほしかったんだ。何者にもならなくていい。ただ生きていればいいって』
エリオは壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
足元はおぼつかなく、全身は飢えと寒さで疲弊しきっている。
それでも、目にはもう絶望の影はなかった。
前世では孤独に死んだ。
でも今は違う。
シリルがいる。
マリエルがいる。
自分が見出した仲間たちが、きっとまだ外で繋がっている。
そして何より、自分自身が、ただ生きていることに価値を見出す意志を今初めて獲得したのだ。
一番の底で、エリオの魂が完全に独立した瞬間だった。
『人のために鳴るんじゃない。私が大切だと思うもののために、自分自身の意志で鳴るんだ』
紙片を胸に強く抱きしめ、エリオは深呼吸をした。
暗い牢獄の壁は、もう自分を閉じ込める檻ではない。
反撃のための、静寂な指揮台に変わっていた。




