第9話 闇の中の救済
石切り場からモルタル生成の作業場へ移動した頃には、あたりは夜の闇に包まれていた。
深い森への入り口。
現場を照らすのは、松明の頼りない明かりのみ。
石切りに比べたら力を必要としないためか、ここには年寄りや女性の奴隷の姿もあった。
しかし、肩を下げ、視線が地面を向いているのは変わらない。
暗闇で手元がおぼつかない環境のなか、みな一様に瞳の中の光を失っていた。
そんな惨状を観察していると――。
「やめてください!! それ以上やったら……!!」
女性の悲鳴が一画から聞こえて来た。
地べたに倒れた小柄な老人へ、看守の一人が鞭を振り上げていた。
その光景を見て、先導していたワーグが「へっへ」とニヤついた笑いをこぼす。
しかし、間髪入れずに一陣の風が吹く。
駿馬のごとく駆けたノヴァスが、老人奴隷と看守のあいだに割って入ったのだ。
突然現れた黒髪で半裸の奴隷にひるみ、看守は後ずさった。
怒りをはらんだ紫の瞳に気圧されてしまったその看守は、竦んだ身体をどうにか動かし、誤魔化すように去っていった。
「て、てめぇっ! また……!!」
遅れてやって来たワーグが叫ぶ。
奴隷はこうあるべきという固定観念をことごとく打ち砕くノヴァスの行動に、狼狽えているようだった。
どうにかして抑圧しようと、再び鞭打ちの刑を実行したが、結果は前と同じだった。
体力が尽き果てて地面に座り込むワーグに向かって、ノヴァスが涼しい顔で言う。
「心配するな、ワーグ様。仕事は進める」
あくまでも労働に従事するつもりの彼に対し、ワーグは何も言えないようだった。
場が落ち着いたと判断したノヴァスは、老人を心配してそばに来ていたピンクブロンドの髪の女性奴隷に尋ねる。
「ちょっといいか? ここの仕事を――」
緑の瞳がノヴァスの姿をとらえる。背が高く、腰布一枚の半裸の男。
彼女はおびえたように身を竦めると、その場から逃げてしまった。
「当てが外れたな。まあ、無理もないか」
独りごちていると、「お若い人」と、助けた老人がよろめきながら立ち上がり、声をかけて来た。
彼は助けてくれたお礼とともに、先ほどの女性の事情を説明してくれた。
ここの女性奴隷は、若い男たちにトラウマがある、と。
「私のような老いぼれなら平気なようですが、あなたのような体格の良い若者となると、恐怖を覚えるようです。ですから、何かあれば私を頼ってください」
その小柄な老人奴隷は、強制労働場には似合わない、どこか慇懃で華麗な所作の一礼をしてきた。
「分かりました。極力、彼女らには近づかないようにしましょう。ところで、お身体のほうはご無事ですか?」
自然と、かつての社交の場で使っていたような口調が出てしまう。
相手が何者であれ、この老人が持つ気高さはそれに値するものだと本能が告げていた。
小柄な老人はノヴァスの返しに少々驚いた様子で目を見張り、すぐ柔和に「ええ、背中は少々痛みますが」とほほ笑み返して来た。
それからノヴァスは、窯で燃やす木々の切り出しや加工の工程を老人から訊くと、石切り場で見せたような神業で瞬時にノルマを達成してしまった。
今回、彼が手にした得物は斧だった。
周囲が唖然とするなか、しかし、強気な黒髪の女性奴隷がノヴァスの目の前に躍り出て来る。
「あんた、何余計なことしてんのよ……」
彼女は唇を震わせ、怒りを露わにした。
「……ん? 何かまずいことをしてしまったのか」
「あんたがいつもより仕事を早く終わらせちゃったから……あたしたちはこの後……!」
そのやり取りを聞いていたかのように「くひひっ」と横合いから不快な笑いが聞こえて来る。
情けなく地べたに座ったワーグが、醜悪な笑みを浮かべていた。
(……ああ、そういうことか)
事情を察したノヴァスは、少女の奴隷に向き直る。
見れば、先ほどノヴァスから逃げたピンクブロンド髪の女性奴隷が少女を安心させるように寄りそい、他の女性たちも遠目にこちらへ非難の目を向けてきている。
ノヴァスは、おもむろに右手に持っていた斧を構え――投げた。
「――あん?」と間の抜けたワーグの声と共に、弧を描きながら夜の闇を切り裂いた手斧は、ちょうど彼の股間の前の地面に突き刺さった。
「なッ……がっ……あ、危ねェ!! てっ、てめぇ裸野郎ゥ!! 何をしやがる!!!」
危うく女になるところだったワーグの怒鳴りを無視し、ノヴァスは女性奴隷たち一人一人の顔を見て言った。
「大丈夫だ」
全員に向け、静かに、力強く。
「――君たちの想像通りには、ならないよ」
彼女たちは、唇をかんでこらえながらも、それ以上は何も言えなかった。
ノヴァスの穏やかな瞳と言葉に、言いようのない安心感を覚えたからだ。
その光景を少し離れたところから見ていた老人は、ほっほと笑い「生き残った甲斐がありましたねぇ」と小さくつぶやいたのだった。
◆
いつもなら深夜まで続く過酷な労働も、今夜はノヴァスの神業によって異例の速さで片付いてしまった。
奴隷たちはひと時の安らぎを得るために、木造の薄暗い収容舎――男女の区別すらないタコ部屋へと押し込まれる。
そうしてようやく、一日の終わりの食事が運ばれて来るのだ。
錆びた鍋の中で煮え、どろどろと濁った色の、煮崩れた豆のスープ。
昼と夜に二度配られるだけの、この世で最も味気ない食事が、彼らに許された唯一の糧だった。
入り口では、今日も二人組の看守が事務的に配膳を始めていた。
「……食事の時間っすよ」
奴隷と同様に瞳の光を失った、ブロンド髪の若い看守が無感情に言う。
「……お前たち、ここに並んで両手を出すように」
もう一人の、少し年上の青髪の看守は、顔を苦悶に歪めながら指示を出していた。
一人一人の両手に直接、杓ですくった煮崩れ豆がそそがれる。
奴隷たちは、ほの暗いタコ部屋の中で犬のようにそれを必死に食べる。涙を流している奴隷もいた。
こぼれた煮豆がべちゃりと床を汚す音もする。
それでも何人かは、人としての誇りを何とか保つため、綺麗な所作で食べていた。
「……食べた者から、速やかに寝るように」
感情を押し殺したような声で、青髪の看守が事務的に仕事を終える。
若い看守が、一瞬だけ心配そうな目を奴隷たちに向け、青髪の看守が気を遣うように肩に手を置いている姿が見えた。
(……好きで働いてるわけじゃない奴らもいる、か。しかし、手酌で食事とはな)
煮豆で汚れた自分の手を見て、ノヴァスはぎゅっと拳を握りしめた。
あとは、明日の地獄から目を背けながら寝るだけとなる。
しんと静まり返るタコ部屋に、奴隷たちの息を潜める音だけがやけに目立っている。
多くの奴隷が出来る限りの睡眠を取ろうと必死になるなか、女性奴隷たちは部屋の入り口からできるだけ遠い壁際でうずくまり、おびえているのが息遣いで分かった。
ノヴァスは入り口そばの壁にもたれ掛かり、闇の中にまぎれながら屋外へ意識を向ける。
やがて、汚い笑い声と遠慮のない足音が耳をついた。その音が近づいてくるにつれ、女性奴隷たちのおびえと緊張が強まっていく。
奴隷収容舎の扉が、乱暴に開かれた。
「ヒック……あー、っぷ、今日はぁ、どいつにしようはなぁ」
「ワーグ……ヒック、ワーグさぁん、相当よっれますね。そんなんれ、腰動かせるんですかい? ヒック」
「あぁん? それ、ヒック、おめぇもだろぉ? 酔っれねぇとくせぇからなぁ!! 素面じゃむりむりぃ!!」
ぎゃはははは!! と、彼女らにとって屈辱的な言葉で嘲笑う者たち。
泥酔した現場主任ワーグとその取り巻きたちだ。
部屋の奥から、嗚咽を必死に抑え込むような息づかいが聞こえる。
ノヴァスは、静かに立ち上がった。
「……あぁ? おめぇ、誰らっけぇ?」
「あの脅しの後で、よく来たな。歓迎するよ」
気の抜けたようなワーグの言葉が出るやいなや、ノヴァスは不届き者全員を一撃で気絶させ、瞬く間にのしてしまった。
べちゃべちゃべちゃっと、次々と床の汚れに顔から突っ込む愚か者たち。
「深酒をしたなら、さっさと寝ろ」
ノヴァスが冷たく吐き捨てる。
おびえていた女性奴隷たちをはじめ、みなが息を呑んだ。
「酒臭いな……まったく」
嫌そうな顔をして愚痴り、ノヴァスはワーグたちを麻袋でも担ぐように雑に背負った。
狸寝入りしていた男の奴隷が「そ、そんなことしたら、また……!」と思わずノヴァスを非難しようとしたが、当の本人は悪戯っぽい少年のような笑みを返す。
「心配ない。どうせ忘れてるさ。それに、何かあれば俺が何とかするよ」
呆然とこちらを見る女性奴隷たちへ、ノヴァスは一度だけ静かに頷いて見せ「おやすみ」と言い残してタコ部屋を後にする。
「……あぁ……」
誰かが、安堵の混じった小さな声を漏らしたのだった。
◆
主塔にある執務室では、銀髪の看守長が一人、夜中まで真面目に書類仕事をしていた。
そんな彼の平穏を乱すかのように、突如、バァン! と扉が勢いよく開かれる。
扉の奥から姿を見せたのは、ワーグたちを担いだノヴァスだった。
「酔いつぶれて転がっていたから、風邪を引かないように持ってきた」
見え透いた嘘を堂々と言い放ち、そのまま気絶したワーグたちを入り口付近に転がしてしまうノヴァス。
予想外の事態に、看守長はしばらく言葉を失っていたが、しれっと帰ろうとしたノヴァスを見て我に返ったようだ。
「……ま、待て!! 奴隷が自由に出歩くなど、規則に反する! そ、それに、いくら理由があろうとこんなことが許されると思ってるのか!?」
「なら、鞭打ちか? 俺には効かないって分かっただろう」
ため息混じりに言うノヴァスは、もはや誰にも制御できる存在ではない。
看守長は言いようのない悔しさから歯がみし、机の上の書類ごと拳を握りしめた。
「……それだけの力を持つなら、さっさと逃げ出したらどうだ?」
しぼり出すように、看守長が訊いて来た。
「逃げる理由がない。俺の目的はここの機能不全だ」
「ふざけたことを」
「俺は大真面目だ」
あくまでも意志を曲げない腰布一枚の奴隷。
一言一言が力強く、心のうちを無遠慮に照らす強い光のような存在感に耐えられなくなったのか、看守長はとうとう感情を昂らせた。
「……ならば! さっさと我ら全員を倒して、自己満足の解放ごっこでもすればいい!! その力があれば容易いだろう!!」
目の前の銀髪の男はこちらをにらみつけながら、バンッと机に拳を叩きつけた。
飾り気のない感情をぶつけられたノヴァスは、しばらく彼と目を合わせ、静かに笑う。
「――救いのあるやつは、全員救いたい」
「……ッ!」
「ああ、そうだ。今度から食事の時に皿とさじを用意してくれよ。あれじゃいくら何でもかわいそうだ」
ノヴァスはそう言い残すと、用件はもう済んだとばかりに右手をひらひらさせて退出して行った。
一人残された看守長は、呆然と椅子に座りこむ。
「救いのあるやつ、だと……! 狂っている……貴様も、この場所もッ……!」
しんと静まり返った執務室に、絶望を喰われ始めた者の悲鳴が染みわたった。
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