第34話 遠浅の町コラヴィ
コラヴィという町に着いたのは、正午を少し過ぎた頃だった。
「ほ、本当に海の上にあるんだ」
ヒナカは四時間もの強行軍による疲労感をおして、目の前の爽快な町並みに赤紫の瞳を輝かせた。
〈遠浅街道〉に寄り添うように、水域油木を切り出した材を豪華に使い、琥珀色のデッキとデッキを桟橋でつなぎ合わせた構造をしている。それが遠浅の海の上、太陽の光を浴びて風景を彩っていた。
貴族や商人の財力が投入された、水の国のリゾート地でよく見かけるような光景だとノヴァスは思った。景観が優先され、表に無粋な兵士の姿や検問がないのは正直ありがたい。
「ああ、でも……」
と、はしゃいでいたヒナカは、しおれるように自分の姿をあらためて見る。
浄衣を隠すために羽織ったみすぼらしい黒衣。
海水に浸かり、生乾きでベトベトの全身。
加えて、身分を示せるものは何もない。
ウェイスエンドで宿をとるのに苦労したことを思い出したのか、急に不安げな顔で振り返り、こちらを見上げて来た。
「心配いらないよ。ここにはアテがある」
ノヴァスの迷いのない様子にヒナカの顔から不安の色がたちまち消えた。
「アテ?」と首をかしげている。
「とりあえず、町に入ろうか」
ノヴァスは言いながら、ちらりと町はずれの陰に目をやった。
数刻前に水しぶきを掛けて来た海馬の黒い馬車が停まっていた。
大きな漆黒の金属で出来た荷台は、物々しい鎖で縛られ、厳重にカギを掛けられている。
視界の端でとらえたその異様な存在に目を細めつつ、ノヴァスはヒナカを連れて琥珀色のリゾート地に足を踏み出した。
◆
トリスのポイマン・アンドレス商会が経営している〈雨やどり亭〉。
世界各地の流通路に支店がある、庶民向けから上流階級までさまざまなニーズに応える旅の宿。
第一商会の影響力が強かったウェイスエンドには運悪くなかったが、コラヴィには支店が設けられている。
ノヴァスの言ったアテの正体だ。
この宿では、わざわざ身分を証明する必要がない。なぜなら――。
「……も、もしかして、ノヴァスぼっちゃんですか?」
町並みに溶け込む品のある外観をした宿に入るやいなや、受付にいた店主が驚きの声を上げた。彼はかつて、士官学院生時代のノヴァスによって救われた元奴隷の一人だ。
「その呼び方はやめてくれ。俺はもう貴族じゃない」
「い、いやぁ、驚きましたよ! まさかここであなたのお顔を拝見できるとは! 色々お伺いしたいことはありますが――」
店主はノヴァスと黒衣の太っちょモードのヒナカを見比べて、言葉を濁した。
「今はやめてくれ」
きっぱりと言うと、店主はうんうんと人が良さそうにうなずき、詮索はしないでくれた。それよりもノヴァスをもてなしたいという気持ちが先走り、顔をほころばせているようだ。
「承知しておりますとも。おそらく海馬の馬車にやられたんでしょう?」
店主はそう言って、ノヴァスと少し後ろで縮こまり、隠れるようにしているヒナカの姿を見た。二人とも、まだ生乾きの服を着たままだ。
「身重の奥様の身体が冷えてしまっては大変だ! 今すぐ、スイートルームへご案内いたします。温水が出る〈水石〉のシャワーと、遠浅の海を一望できる開放的な浴室がございますので、お二人でごゆるりとされるといいでしょう」
「ああ、えっとそれは――」
またか。
と、ノヴァスの頬が少し熱くなる。相手が顔見知りで演技をする必要がないためか、不覚にも動揺してしまった。
隣をちらりと見ると、ヒナカも言葉を失い、固く結んだ唇をぷるぷると震わせている。
「ささっ、こちらへ。当店は、商会専属の護衛による防犯対策も完備。スイートルームは他の部屋とは距離がございますので、万一にも音が聞かれることはないでしょう。振動の響かないダブルベッドでございます。」
にこにこと手を揉み先導しながら、どんどんあらぬ方向に調子づいていく店主。
「あっ、これは失敬。今はそういう時期じゃありませんでしたね! 激しいのは厳禁! ははっ、これはこれは!」
ははー! っとお茶目に笑って額に手を当てている。
わざとやっているのかと疑うほどの赤裸々な羞恥案内に、ヒナカは思考停止状態に陥って、左右の両手両足がそろって前に出ていた。
「ノヴァス様は女っ気が全然ありませんでしたからね。商会仲間のあいだでも心配していたんですよ。いやぁ、ようやくお相手を選ばれたようでとても嬉しいですよ、ええ!」
もはや愛想笑いを返しながら店主の言葉を右から左へ受け流し、ノヴァスとヒナカはとぼとぼと歩を進める。
(……トリスのやつ、部下に何を吹き込んでいたんだ……?)
内心で盟友の商人を呪いながら、まるで罪を犯した囚人のように、二人はスイートルームへ連行されるのだった。
◆
「では、ごゆるりと!」
キィー、パタン。という軽い音が鳴り、品のある豪華さで透明感のある牢獄へ二人は投じられた。
ざざーんという、静かな波の音がやけに大きく聞こえる。
部屋には、入口以外に扉や窓がない。
客室から浅い木の階段を下りれば、そこはもう遠浅の海。
人肌とほぼ同じ温かさの心地よい風が、その吹き抜けの部屋に滞留しては、通り過ぎて行く。
この客室専用のものなのか、階段から降りたすぐそばの砂底は深く掘り下げられており、木枠で砂地が固定されて泳げる深さのプールになっていた。
琥珀色の水域油木で統一された床には、豪奢な深紅のカーペットが敷かれ、泳いでそのまま部屋に戻っても水浸しにならない至れり尽くせりの部屋だった。
「……さっきの男の言葉は忘れてくれ。あれでも悪気は無さそうだが、無神経が過ぎた」
「う、うん。わたしは大丈夫」
二人して入口前に立ち尽くしながら、居心地悪そうに視線をそらす。
ノヴァスは何とか空気を切り替えようと、今やるべきことを提案する。
「と、とりあえず、服を着替えて乾かそうか。このままじゃ風邪を引く」
ノヴァスは、努めて冷静に言ったつもりだった。
だが、はっと我に返る。
(……しまった、これだと不安にさせてしまう)
早合点し、ヒナカの視界から見えなくなるように部屋の一画にあった衝立の向こうへ移動した。
これなら彼女も怖くないだろう、と。
「俺はここにいるから、必要なことが済んだら声を掛けてくれ」
一方的にそう告げ、背を向けて座る。
すると、衝立の向こうから、くすくすと可笑しそうな笑い声が聞こえて来た。
「うん、ありがとね。それじゃあ、お言葉に甘えて。あっ、ノヴァスの着替えも、出しておくね」
ヒナカの言葉は、思いのほか余裕のある声色だった。さっきはあんなに動揺していたのに。と、ノヴァスは一人負けた気分になる。
次いで、遠くから――おそらくシャワーのある浴室から、しゅるりと、衣擦れの音が響いて来た。部屋と部屋のあいだに扉がないせいか、小さな音も筒抜けだ。
(――光を求めるものに、夜は等しく明けるだろう)
ノヴァスは座禅を組み、黎明の型を発動するときの一節を心の中で唱え、明鏡止水の境地を目指した。
キイッという、何かを捻る音の後に、サーっという軽やかな水の流れる音が響いてくる。
(……集中)
おそらく海水に浸かった服を真水で洗っているのだろう。
じゃぶじゃぶという水音が、少し楽し気なリズムで聞こえて来る。
(……楽しんでるな)
いかんいかん、と自分の内面に意識を集中させる。
心に鞭打ち、おそらく今までの人生で最も長い十数分を過ごす。
やがて、きゅっきゅっという捻る音が再び聞こえ、水音が止んだ。
しかし――。
「あ~~~! そうだったぁ!」
という呆然とした叫びが聞こえて来た。
「ど、どうした?」
衝立越しに会話を試みる。
「尻尾を通す穴、ない」
「は?」
「ノヴァスの服買った時に、ついでにわたしの予備の服も用意したんだけど……これ、尻尾のある獣人が着るような造りじゃないんだよね。失敗した~」
その説明で、ノヴァスは「ああ」と腑に落ちた。
同じ服でも、尻尾を想定してないものと、尻尾を通す穴が開いている、もしくはスリットに通して包み込むような造りになった服がある。
ヒナカはおそらく間違えて買ってしまったのだろう。
「まあいっか。これで乾くまで待とう」
何やら一人で納得し、ひたひたという足音が居間に近づいて来た。
「出て来て大丈夫だよ、ノヴァス」
少し照れくさそうな声で、衝立の向こうから許可が下りた。
さて、自分も着替えなければと、ノヴァスはいざ衝立から顔を出した。
のだが――。
なッっと息が止まる。
「へへっ、気にしないで」
頬をほんのり染めていたずらっぽくそういったヒナカは、タオルを一枚巻いただけの姿だった。
しかも、大きな尻尾を無理やり押し込み、豊満な胸を何とか収めてぎりぎり前で留めている。
下手に動けばおそらく解け飛ぶだろう。
大きな狐耳と、腰まで伸びたしなやかな深栗色の髪の毛は濡れていて、遠浅の海で横たわった時とは似ても似つかない色香を漂わせていた。
気にしないでと軽く言うが、男という生き物がこれを気にしないのは到底無理だ。
ノヴァスは、かっと熱くなった顔を誤魔化すように他所へそらす。
「……じゃあ、俺も着替えて来るから、風邪ひかないようにこれは羽織っておけ」
そう言いながら自分の暗緑色の外套を脱いで渡そうと思ったのだが、そこで手が止まる。
「……これも、濡れてるんだったな」
そのつぶやきに、ぶふぅという吹いたような笑いが隣から飛んできた。
見ることはできないが、おそらくヒナカが腹を抱えながら笑いをこらえている気配は分かった。
「ああ、まったく。……身体冷やさないようにだけ気をつけるように」
「ふふっ、はーい」
まるで教師のようなノヴァスのお小言に、からかい混じりの軽い返事が返って来たのだった。
◆
琥珀色の水域油木の香り漂う隠れ家のような浴室のなか、シャワーと衣服の洗浄を済ませたノヴァスは、ヒナカにならって端に設置されていた〈風石〉の送風箱の上に黒のオーバーチュニックを干そうとした。
――が、手が止まり、凍りつく。
すでに干されていた純白の浄衣の隣に、彼女の下着なども一緒に干されていたのだ。
人知れず心を乱されたノヴァスは、できるだけ見ないように努力して、自分の衣服を吊るし終わると火照りに浮かされながら居間に戻った。
タオル一枚で。
「あ、終わった――ってぇ!? な、何であなたもタオル一枚なの!?」
ソファにちょこんと座り、遠浅の海を眺めていたヒナカが狼狽える。
先ほどの余裕はどこかへ吹き飛んでしまったように、顔を赤くしていた。
今のノヴァスはまるで、あの砦で腰布一枚だった時のような姿だった。
「いや、まあ、お前にだけ恥ずかしい思いをさせるのは気が引けると思って」
「えー……で、でも、あなた、裸になって恥ずかしいの?」
ほっぺをほんのりと染めながら、ジトっとした疑いの目を向けて来るヒナカ。
砦で見慣れていたはずだが、今はどこかよそよそしい感じでチラ見している。
「……どうだろうな。よく、わからない」
ノヴァスは歯切れが悪そうにしながら、ヒナカの座っているものとは反対側のソファに腰を下ろした。
「ふ、ふーん? そっか……。わからない、か……」
サアっという軽やかな海風が、部屋に吹き込み、二人の頬の熱をさらっていく。
居心地悪いはずなのに、嫌じゃない。落ち着かないのに、安心する。
そんな矛盾が満ちた空気感のなか、心地よい静寂が二人のあいだを満たした。
「ねぇ、ノヴァス」
ぽつりとヒナカがつぶやく。
「なんだ?」
意外にも自然と声が出た。
「ミヤビ……大丈夫かな?」
ソファの上でさびしさを紛らわすように両膝を抱きかかえ、彼女の赤紫の瞳は水平線へと向けられていた。
「俺はそのミヤビさんのことをよく知らないが――」
「……そっか。知らない、もんね」
彼女はあいまいに、さびしげに微笑んでいた。
「よく知らないが、きっと大丈夫だよ。根拠はない。そう信じてる」
無責任なようで、力強い未来の肯定。
あまりにも清々しいその言葉に、ヒナカの口から「へへっ」という笑みがこぼれた。
「なんだ?」
「あなたって普段は合理的なのに、こういう時はやっぱり強引だ」
朗らかな表情で彼女は言った。声には少しのからかいが混じっている。
「別にいいだろう、信じたいものを信じれば。結果は誰にも分からないんだ。だったら、少しでも良い未来を信じたほうがいい」
「うん、そうだね……ありがとう」
二人のあいだの浮かれた熱は、波音と海風に浄化され、程よい温かさで安定した。
タオル一枚同士。
心臓の音がよく響く。
いつの間にか、妙な緊張感は脱ぎ捨てられていた。
「さて、それじゃあ俺は外で何か食べ物を買ってくるよ。腹、減っただろう?」
「うん! たくさん歩いたし、もうお腹ぺこぺこだよ」
ノヴァスの申し出に、ヒナカはぱあっと表情を明るくしてうなずいたのだった――。
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