第33話 水の国名物〈遠浅街道〉
鼻腔をくすぐる懐かしく、安心する匂い。
ノヴァスは誘われるままに目を開ける。
チュンチュンという鳥の鳴き声が木々の上から聞こえ、朝を知らせてくれる。
(……しまった。寝てしまったのか)
夜番のために徹夜しようと決めていたのに、どういうわけか、いつの間にか眠ってしまった。
たしか、隣からの「うぇっへ」という少女にあるまじき間抜けた寝言と遭遇し、深夜に衝撃が走ったのはよく覚えている。そこからの記憶は、あいまいだった。
(ダメだな、彼女といると油断してしまう。気を引き締めなければ)
眠気を払うように頭を振って、ノヴァスは隣で寝ているはずのヒナカを見た。
しかし、シダの寝床はもぬけの殻で姿が見えない。
「一体、どこへ」
言いかけて、焚き火の周りが昨日と様変わりしていることに気づく。
小さな蓋つきの鍋が火にかけられ、かたかたと煮え立つ音を立てている。
焚き火のそばに即席で造られた石の台には、別の鍋がもう一つあった。白い湯気を揺らめかせ、かぐわしく朝の空気によく合う味噌の香りが広がっている。
ぼうっとその光景を見ていると、ガサリと、近くから草の擦れる音が鳴る。
「あ、おはよう。ちょうどいいタイミングだね」
はつらつとした浄衣姿の少女が現れた。
大きな狐耳はぴんと立ち、深栗色の尻尾もふわりふわりと揺れている。
両手に野草を抱えていることから、このあたりで採集をしていたのだろう。
どうやら、昨日の疲労はすっかり取れたようだ。
「おはよう。それ、作ってくれたのか。ありがとう」
ノヴァスは心地よい木漏れ日を目に受けて眠気を払い、寄りかかっていた木から離れる。
焚き火のそばへ行くと、「はいどうぞ」っと味噌汁の入った椀を差し出された。
その芳醇な朝の香りを口にし、ノヴァスは気力を蓄えるのだった。
◆
両脇を草原に挟まれた石畳の街道をしばらく進むにつれて、太陽の光も増していく。
「――水の国への入口だ」
街道の先を覆い隠すように輝く海面を見て、ノヴァスは言った。
辺り一面が遠浅の海に囲まれた、鏡のように幻想的な地形が青空を映している。
わた菓子のような積雲が海面にも浮かぶように流れ、視界いっぱいに広がる紺碧と白の情景が二人を迎え入れた。
ヒナカは「わあ……!」と感嘆の声を上げ、黒い外套をなびかせながら一足先に駆けていった。
「ねぇノヴァス! すごいよ! こんなの初めて!」
水の国名物〈遠浅街道〉。
くるぶしが浸かるほどの海水に覆われた道が、水の国の王都がある大島まで続いている。
その街道への入口、遠浅の海に透ける石畳の水際を片足でぱしゃぱしゃと踏みながら、ヒナカは嬉しそうに「ノヴァスも早く来て、お魚見えたよ」と急かし立てていた。
「ヒナカ、綺麗なのは分かるが、ちょっとこっちに来てくれ」
そう言ってちょいちょいと手招きしてから、草原の上で革のロングブーツを脱ぎ始めた。
何事かとヒナカがすぐに駆け寄って来て、こちらへ疑いのジト目を向ける。
「いや、服は脱がないぞ」
「良かった。この解放感だから、てっきり」
ほっと大きな胸をなでおろす彼女に「失敬な」と言ってから、ノヴァスは頼み事をする。
「撥水蠟を出してくれないか」
「えーっと……なんだっけ、それ?」
左の袖口に手を突っ込んでガサゴソ動かしながら、ヒナカはきょとんとこちらを見る。
「青いろうそくみたいな道具、ウェイスエンドで買っただろう?」
「ああ! あれね! よっと、はいっ」
ノヴァスは撥水蠟を受け取ると、入念に脱いだブーツに塗りつけていく。蝋がブーツの上をなぞるたび、青い光がこぼれるように落ちて、革の中に染み込んでいくようだった。
「ヒナカも、ほら」
と言って、撥水蠟を投げ渡す。「わわっ」と焦りながらも、彼女はしっかりキャッチして受け取る。
いそいそとノヴァスにならって革のブーツを脱ぎ、丁寧に塗っていく。
薄手の黒いオーバーニーソックスに透けて、白く艶めかしい脚があぐらをかいていた。スカートではなくショートパンツとはいえ、さすがにこの無防備さは目の毒だ。
ノヴァスは思わず、熱に浮かされた邪念を消し去るように水辺へ歩き、紺碧の水平を遠目に見た。
(隙だらけで困るな……他の男の目がなくて良かった)
「よし! 準備完了! へへっ! あれ? どうしたの?」
真剣な顔で水平線をにらみ続けるノヴァスの様子に、ヒナカが首をかしげる。
それから、何かある?っと隣に立ち並び、手で日よけを作って呑気に遠くを見ていた。
「ね、これって防水のため?」
ちゃぷちゃぷと、足元で波打つ海辺を見下ろしてヒナカが言った。
「それもあるが、すべり止めや水の抵抗をなくす効果もある」
気を取り直したノヴァスは、遠浅街道に足を踏み入れて見せた。
するりと水の抵抗を感じさせない彼の歩調を見て、ヒナカも続く。
「ほんとだ! なんか、水が避けてくれてるみたいで不思議だ!」
「ここからしばらくは、この光景通りの道が続くからな。かなり歩くことになるぞ。王都に近くなるにつれて砂地が増えて、陸地が出て来る」
「ふーん? ……あれ? 休憩場所って……」
水平まで続く見渡す限りの美しい遠浅に、ヒナカは恐る恐る言った。
この街道の恐ろしさにようやく気づいたのだろう。
しかし、ノヴァスはくすりと笑うと、安心させるように告げる。
「道中、水上家屋の町がいくつかある。そこで休憩できるはずだ。最初の町までは……四時間弱ってところか」
「わぁお……」
「だから、歩いて渡ろうとする旅人はまれだ。普通は地の国に近い街道から地続きのルートを使う」
「わぁぁお……」
ヒナカは遠い目で消え入るような声を繰り返し、うなだれた。
◆
「あ、足が……重い」
少し後ろを歩くヒナカが肩を下げ、うめく。
彼女は純白の浄衣の身頃をまくり上げ、スカートのように太もも周りに巻いている。
裾が濡れないためにそうしているのだが、それが返って歩きづらさを助長させているのかもしれない。
光の大陸は日が長く、まだまだ太陽が沈む気配はない。ギラギラと遠浅の海面に照り返した反射が何時間も続くと、それもまた疲労の原因となる。
(二時間は歩いたからな……。それに荷物の負荷もある。そろそろ負ぶってやらないと――ん?)
少し前に照れくさそうに断られた提案を再びしようと、振り返った時だった。
ヒナカ越しに、街道の後方から大きな黒い影がどんどん近づいて来るのが見えた。
(あれは、止まる気ないな……)
ノヴァスは素早く反応して、歩くのに苦戦しているヒナカの手を取った。
「えっ、どうしたの?」
分けも分からず戸惑う彼女をそのままぐいっと引き寄せて、二人して街道の端に退避する。
次の瞬間。
バシャーン!!! っと二人のすぐ横を、黒い影が猛スピードで通り過ぎて行った。
車輪に弾かれた大量の波しぶきを真正面から余すことなく浴びたノヴァスたちは、たちまち全身がずぶ濡れになってしまった。
漆黒の大きな荷台を運ぶその馬車は、やがて遠ざかり小さくなっていった。
「しょ、しょっぱい! も~……何なの? 今の馬車」
ヒナカが海水の味に舌を出して顔をしかめている。
頭から足の先まで、ついでに尻尾まで海水でずぶ濡れだ。
ぽたぽたと、二人の全身から雫がしたたり落ちている。
しかし、まるで水濡れなどなかったかのように、ノヴァスはあごに手を当てて思案する。
「……あの速さ。海馬に引かせた馬車か」
「ひっぽ?」
「水の国の水上移動に特化した生態を持つ馬。いや、どちらかと言えば魔物だな」
普通の馬と違い、足に魔力を纏わせ撥水蠟と同じ効果を生む力を持っていて、脚力も数倍強い。
そう説明しながら、ノヴァスは街道の脇――石畳から外れた場所にある白い砂地に腰を下ろした。
黒い馬車はもうすでに豆粒のように小さくなっている。
「もうあんなに遠くに。何を運んでたんだろう」
「あの黒く大きな荷台か……気になるな」
「――ところで」
ヒナカはノヴァスにならって白い砂地に踏み入り、正座した。
二人とも座り込んでいるためか、ちゃぷちゃぷという水がぶつかる音が近い。
「ずぶ濡れだけど、どうしよっか」
へへっ。と何だか楽しそうに笑うヒナカ。
ノヴァスもつられて小さく笑い返す。
それから、何かに気づいたように白い砂のやわらかさを確認し、そのまま寝転がって青空を仰いだ。
ヒナカは一瞬、きょとんとしていたが、こちらの意図を理解したのか隣に横になった。つつっと、腕が触れ合いそうなくらいに距離を詰めている。
「少しこのまま、休憩しよう」
「うん」
安心しきった声が返って来た。
太陽の光でほどよい温かさになった海水が、疲れて火照った身体に染み渡る。
透き通った蒼天を、白い積雲がゆっくりと流れて行く。
ふと隣を見ると、ヒナカは器用に大きな耳を前傾させて水が中に入らないようにしていた。
「へぇ、器用だな」
「んふふ、でしょ?」
頬を赤くしたドヤ顔が返って来た。
人間族の耳は少し不便だなとノヴァスは思いながら、耳元でちゃぷりちゃぷりと音を立てたり、水に浸かって静寂が訪れたりする感覚を楽しむ。
二人は並んで寝転がり、紺碧の空と海に挟まれて安らいだのだった――。
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