第32話 覇王の夜
月光が雲でさえぎられた深夜。
第一商会を後にしたノヴァスは、街の屋根伝いに跳躍して移動していた
――浄衣姿のヒナカをお姫様抱っこしながら。
「ノヴァス……わたし、重いでしょ? 自分で移動できるよ……?」
「心配するな、軽い」
そう言って抱きかかえるヒナカの重さは、旅の物資のせいでこの街に来た時より数キロ増えていた。
「う、嘘ばっかり……」
ぼそりと恥ずかしそうにこぼす彼女だったが、その表情にはやはり疲労の色が見える。
まぶたを重そうにうつらうつらとさせながら、決して眠るまいと眉間に力を入れているようだった。大きな狐耳も、しおれたように先っぽが垂れている。
「勘違いするな、お前の重さじゃなくて、荷物の重さだよ。それに強がってるようだが、透明化の負荷で辛そうだぞ。俺のように頑丈なわけでもないから、足を踏み外しでもしたら大変だ――っと」
タンッと、屋根の端で踏み込んで跳躍し、次の家屋の屋根へ音もなく着地する。
「……本当に、荷物だけ……?」
ヒナカはまどろみながらも、むにゅっと自分の頬を上げて確認している。
その様子に、ノヴァスは気づかれないように小さく微笑みながら「ああ」と肯定する。
「寝てていいぞ。着いたら起こす」
「ありがと……思ったより、二人分は、大変で……」
「ああ、頑張ったな」
その言葉に安心したのかヒナカの頭がこてんと腕の中に落ちた。彼女は弱った微笑みのままに、ゆっくりと目をつむる。
ほどなくして、すう、すうと胸元から穏やかな寝息が聞こえて来た。
おそらく彼女がここまで疲労しているのは、透明化や荷物の負荷だけが原因じゃない。
裏帳簿で見た、あの生々しい文字を思い出し、ノヴァスは眉間にしわを寄せる。
必ず、助けなければ。
そう決意を新たに、また一つ、屋根を飛び越えていく。
(さて、この街にもう用はない。あの宿に戻る必要もないが――)
街の外まであと少しというところで、拠点にしていたドヤ街の安宿が遠目に見えた。
足を速めたまま、ちらりと一瞥する。
(ああ、また性懲りもなくのぞきに来たのか)
一瞬、宿の側面に店主の影を見たノヴァスは、その滑稽さにやれやれと呆れる。
(できれば、寝心地のいい場所で寝かせてやりたいな)
腕の中で眠るヒナカの美しい寝顔を見て、今一度しっかりと抱え、夜の闇をひた走る。
屋根と屋根のあいだを飛ぶたびに、ヒナカの純白の浄衣がひらひらと夜風の中で軽やかになびく。
ノヴァスの明け空のような紫の眼差しは、士官学院で独りだった頃よりずっと、澄み切っていた。
◆
しばらく水の国方面へ進み、街道沿いにちょうどいい林を見つけたので、そこを今晩の野営地とした。
風通しの心地よいやわらかな草地に、眠るヒナカをそっと降ろす。
「そうか、荷物は出せない。俺の上着は問題ないが――」
相変わらず上裸のノヴァスは言葉を切って、安らかに寝息を立てる相棒を見る。
「このあたりの夜風は意外と冷えるからな……」
彼女を起こす気はない。
ノヴァスは林の中で思案しながら、必要なものを集めることにした。
薪を拾い、乾燥した木の幹から火口を削り出し、肌触りのいい大きなシダの葉を採集する。
シダを大量に敷き詰め、できるだけふかふかの簡易ベッドを作ると、ヒナカを起こさないように抱き上げて寝かせる。
「ん、んん……」と、彼女は一度身をよじったが、眠りは深く起きる気配はなかった。
ふっと微笑み、次に集めた薪を積み上げて火口を設置する。
腰元の小さなベルトポーチから火起こしの道具を取り出し、手際よく火をつけた。
そうして、すぐそばの木に背を預け、腰を下ろす。
ゆらめく焚き火の光で、隣で眠るヒナカの穏やかな顔がよく見えた。
じっと見つめそうになる衝動を抑えるように首を振り、ノヴァスは今日手に入れた重要情報に意識を向けた。
「時計のない部屋の住人……」
明らかに偽名だと分かる、その不気味な名義。
確かなのは、その人物が水の国の貴族であることと、ミヤビさんが王都へと連れて行かれたということ。
王都での仲介商人の情報も記載がなかったため、あちらに着いたらまた色々と探る必要がある。
「それに――」
裏帳簿を見たときに、ノヴァスはある違和感を覚えた。
ミヤビさんを含め、直近で取引された奴隷の数が驚くほど多かったのだ。
学院生時代に手当たり次第に他の生徒の奴隷を奪いつくしていたノヴァスだからこそ、肌感覚で分かる。あの数は異常だと。
そしてその取引先はすべて、水の国の王都パラロス。
「トリスの商会なら、何かつかんでいるかもな……」
王都に着いたら親しい熟練商人のツテを頼ろうと決め、ノヴァスは薪を一つ焚き火に向かって放り投げた――。
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