第19話 歪んだ欲の行きつく先
――その頃、剣を捨てた一人の影が、夜道をひた走っていた。
強制労働場の西側の、まばらな木立の続く林道。
ノヴァスが馬車で運ばれた際に通ってきたその道には、月明かりをさえぎるほどの木々はない。
しかし、雲に隠され弱まった月光で、薄い影が交差するその夜道は、かえって木陰の闇に何かが潜んでいるような気味の悪さだった。
「お、俺様は真の王、こんなところでくたばってたまるか」
ぶつぶつと、自分に言い聞かせながら息を切らしているのは、敵前逃亡中のワーグだった。
「そう、そうだ。もう誰も見ちゃいない……見ちゃいないんだ……へへっ」
この男は、みなが一騎打ちに釘付けになっている隙に戦場からぬけぬけと逃亡してしまった。
ノヴァスに握らされた誇りを放り捨てて。
「生き残ったもん勝ちなんだよ……馬鹿め」
薄ら笑いを浮かべながら、一息入れる。
ここまで来れば、あとは適当な街に向かおう。
そこで女を買おう。酒場で飲みまくるのもいい。
ワーグの右手には、どさくさに紛れて盗み出した金貨袋が握られている。
砦の運用資金の一部が入ったものだ。
「ふひっ、ぶへへへへ……」
ちゃりちゃりと耳元で揺らし、袋の中から鳴る魅惑の音に歓喜する。
「クラウン金貨百枚はあるなぁ……ふひっ、しばらく遊び放だ――」
うっふふふふ。
林道に響く笑い声。
太い男声なのに妖艶で、冷たく、背筋の凍るような音だった。
「い、今……き、気のせいか?」
ワーグは、ゴクリと生唾を飲み、木々のあいまに目を凝らす。
肉眼で認識できるくらいには、薄明るい木立。それなのに、幹の裏の影が濃い。
ガサッ。と、背後から音が鳴り、ワーグは「ひいっ」と跳ねるように振り返る。
林道に、一匹の可愛らしい子うさぎが迷い出てきた。
「は、はは……び、ビビらせやがって!! この害獣が!!」
無性に腹が立ったワーグは、その子うさぎを蹴り飛ばしてやろうと一歩を踏み出そうとした。その時。
「――醜いわね」
背後から、耳元で囁かれる。
ワーグは、心臓が鷲掴みされたような恐怖を覚え、気がつけば振り返らずに走り出していた。
呼吸を荒らげ、なりふり構わず全力で走る。
しかし、右手に握られた金貨袋だけは手放さなかった。ちゃりん、ちゃりんと、自分の居場所はここだと知らせるように欲望の音が鳴る。
そんな醜い悪あがきは、長くは続かない。
走るワーグの前方――闇夜の曇天よりも暗い影が、黒い翼を広げて舞い降りて来た。
ばさっ、ばさっと羽ばたきが土埃を上げ、ワーグの逃げ道を塞ぐ。
ぺろりと舌なめずりをしたその大男は、まつ毛の濃い赤い目で獲物を見た。
「誇りを捨てても、己の命が惜しいのねぇ。あっちには素敵な男子たちがたくさんいたようだけれど、あなたはダメ。残念だわ」
ふざけた口調だとワーグは思った。
しかし、上から押しつぶされるような、生物としての格の差を思い知らされるような圧に、足が止まる。
「し、知るかァ!! 生きてナンボなんだよ!! 死んだらそこでおしまいなんだ!! 俺は逃げる!! 逃げるぜ!!!」
と、ワーグは恐怖から逃れるように錯乱し、叫ぶ。
しかし、次の瞬間には金貨袋を掴んでいたはず右手がなくなっていた。ずしゃっという生々しい音。下を見れば、肘元で切られた腕が転がっている。
ヒュン。
乾いた音とともに、今度は左肘から先が消え、宙を舞った。
「――ぎゃ、ぎゃあああああああッ!!」
地面をのたうち回り、悲鳴を上げる獲物。
うふっと笑った大男が、血濡れた爪を舐め、ゆったりと近づいていく。
「はは、ははははは……!! こ、こんな……!! こんなことはあり得ない!!! 俺様にはまだまだやりたいことが!!! 金持ちになって!! 豪邸で女を侍らせて!!! まだ……まだまだやりたい、こと、がっ」
ワーグは喉を鳴らした。
自分を見下ろす、まつ毛の濃い赤い瞳。
生物の本能的な恐怖が、警鐘を鳴らしている。
心臓が早く逃げろと言っている。
しかし、ワーグの口からは「あ、う」という言葉にならない声が漏れるだけだった。
「汚くて下劣。まあいいわ」
大男は、懐から出した薬瓶に人差し指を浸し、その鋭利で長い爪を――ワーグの肩に突き刺した。
「な、何だ!? 痛みが」
ワーグの痛覚が遮断される。
「あなた、生き様は醜悪だけれど……ずいぶん抑圧された性を感じるから、少しは期待できるかしらねぇ?」
大男はそう言って舌なめずりした。
「な、何の話だっ!」
「あら、言ってなかったかしら? 私は――エルダーインキュバスよ」
空気が凍った。
「い、いいい、インキュバス!? 狙うのは女のはずだろォ!?」
ワーグは血走った目を剥き、逃げるように後ずさる。しかし、恐怖と痛覚の遮断で、身体が思うように動かない。
「言ったでしょう? エルダーインキュバス。すごぉいインキュバスなの。女に飽きて男にも手を出すような、ね」
「ひっ、ひいいいいいっ!!」
がしっと力強い雄々しい手で、ワーグは片足首を掴まれた。
「や、やめろっ! 離しやがれぇ! 嫌だ!! 嫌だいやだいやだああああ!!!!!」
そのまま、不気味な林の奥へ奥へと引きずり込まれていく。
「うふふっ……そろそろ、夜明けかしらね」
影が不気味に伸びる木立のなか、ワーグの絶叫だけが、夜の静寂を醜く切り裂き、そして飲み込まれていった――。
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